19230901東京市の8割が火の海と化す
関東大震災から100年
先日ハワイのマウイ島で大規模な山火事という自然災害がおこりました皆さんご存知のとおり広大な範囲で街が壊滅状態で多くの犠牲者を出しています。
ちょうど100年前火の海となり多くの犠牲者を出したのは東京ですね。当時の東京市の44%が9月3日まで続いた火災で消失しました。
今でも防災の日として各所で避難訓練をする日となっています。
復興計画の舵取り役を担った後藤新平
焼け野原となった東京の復興を10年足らずに成し遂げたのは後藤新平の手腕があってこそだと言われています。
仙台生まれの後藤は福島県須賀川医学校を経て19歳で医師となり24歳で名古屋の愛知県病院の病院長を務め衛生行政に注力し有力者の目に留まる活躍でした。
その後32歳でドイツに留学し多くを学び吸収していきます。ベルリンでは細菌学の世界的権威のコッホに師事し、ミュンヘンでは衛生制度と社会政策を学び医学博士号を取得しました。
この留学2年間を経て内務省衛生局長として日本の衛生行政の責任者となったのです。
東京復興と都市計画と台湾の都市形成
台湾は朝鮮半島同様に長い期間日本の統治下にありましたが反日論争が起きることなく非常に親日なのです。その大きな理由というのが、日本統治時代のインフラ整備によって台湾の都市形成の基盤となり、日本統治時に街の衛生面や都市化の基礎が確立したからです。
その街づくりのにもこの後藤新平氏が深く関わっています。
1894年日清戦争の勝利により中国より台湾を譲渡されましたが、ゲリラ問題などで台湾統治は暗礁に乗り上げようとする中、台湾総督児玉源太郎から後藤は台湾民生局長を任されました。
後藤の台湾運営の基本的な考えは『生物学の法則』でした。日本人が台湾に来て台湾人を日本人のようにしようとしてもできるはずがないし、やってはいけない。つまり現地の人々の習慣や文化を重んじるべきということです。
そのため問題のあったゲリラに対し拘束や投獄を決してすることをせず。土木工事などの仕事を与え生活が成り立つ仕組みを作りました。やがて港や道路、鉄道が整い、上下水道まで完備され街の衛生管理の基盤となりました。上下水の完備は東京よりもずっと早かったため台湾の人々の自慢でもあったようです。
街づくりだけではなく、台湾人としての誇りを再確認する機会をつくったのかもしれませんね。
児玉源太郎も後藤新平も現在でも台湾の方々に愛されていますね。
100年以上も前のことなのに。
関東大震災の帝都復興院の総裁に就任
実はこのような台湾での経験が関東大震災の復興事業が多く活きてるとも言われているのです。
大きな幹線道路、公園をはじめとしゴミ処理、社会事業施設、教育、上下水、港湾、河川住宅など近代都市計画の屋台骨といってもいい。
偉大な偉人の社会貢献の上に私たちは当たり前の暮らしをしています
思いを馳せましょう。