見出し画像

【雑記】はるかなるもの

藤沢に戻ってきて、もう1週間が経ったらしい。愛知に居た1ヶ月と比較して、いや、ベトナムに居た時と比べても生活が格段に加速していて、思考が追い付いていない。私の周りを色々な現実が飛び交っていて、たしかに身体はそこにはいるんだけれど、言葉を介さないと何かを理解することが難しい”私”は、多分そこにはいない。言葉は現実に比べてとてもゆっくりだから。

言行一致で潔白で居たいと最近よく書くようになったのだけど、お金もなければ単位もなくて、何より私は精神世界の中だけでは生きていけない。正しくはないイデオロギーの中で取り敢えずで戦う術だって持たないといけない私は、ずっと正しくはなれない。ここに苦しさの根幹がある。”だから”私は会社を辞めた。それも正しくないやり方だったけど、それで今はここにいる。

間違っていたくないと思うことを批判することは可能だけれどもしたくないので、はるかなるものを目指して歩こうと思う。目まぐるしい今の日々は、それでも辛うじて私なりの妥協ライン上に乗っている。色々なことを諦めているから生きることができているわけだけど、それでも諦めないことを目指そうと思う。そんなことをはやすぎる生活に流されないように書き留める。

最後に碇として、西先生の『はるかなるものを』を。

はるかなるもの、それはいつも目指されるものであって、決して手に入れ、手に取ることのできないものです。それは地平線を目指して歩いているようなものです。近づこうとしただけまた遠ざかっていきます。同様に、はるかなるものを目指すことは、一見、無駄な無意味なことのようです。しかし現実を現実として生かし、実感するのは、はるかなるものを目指し、その視野の中に現実を収めとるときだろうと思います。
現実の喪失感による痛み、かなしいまでの自己顕示欲、そしてそこから引き起こされる数多くの痛ましい事件。手近の愛情、さしあたりの解決、とりあえずの妥協。現実はそうしたものの積み重ねではありますが、「さしあたり」はあくまで「さしあたり」であり、「とりあえず」はあくまで「とりあえず」なのです。それを忘れて、親の愛情、家庭の事情、学校教育の問題点をあげつらっても、その議論もまたとりあえずのものになってしまうのです。
本校で学ぶ生徒たちが現実にとりあえず対処する能力を身につけて欲しいと思うのと同時に、はるかなるものを目指して歩み続けるものでもあって欲しいと思います。そのはるかなるものを、あるいは理想と言い、あるいは神と呼び、あるいはまた愛と称することもできるでしょうが、本校はそれを「人間の尊厳のために」と表現しているのです。
愚かだと言われてもいい、現実離れしているとののしられてもいい、私ははるかなるものを目指して歩き続けるのだとの決意を秘めた人間として成長してもらいたい、それを心から願っています。

君たちへ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?