感情はどこだ、机上の感情論で考えろ

ずっと考えていたはずだ。それだけは何もしてこなかった僕の努力と言えるのかもしれない。
だけど、それも甘えきったものだった。自己啓発本か新書、学術書を読めばよかっただろうか。もっと他人の考えに触れるべきだっただろうか。それらを自分の向上に役立てる前に面倒くさい、で片付けてしまう。
ぼくの考えるとは、自分の頭の中で。ついでにインターネットで、都合のいい知識だけ拾って。果たしてそれは「思考」と言えるのか。
机上の空論っていうのはまさしく僕が今やっているこれなのかもしれない。いいじゃんか、自分が好きな世界がつくれるんだから。

感情について考える、というのは机上の空論にぴったりじゃないだろうか。実態もないものについて、自分だけ見ていればいい。極論、自分すら直視しなくても書けてしまう。
机上で始まり、机上で終わる。そこに劇的な向上はない。

喜怒哀楽の、それぞれの違いが分からなくなってくる。全て心が動いているというだけの曖昧なベクトル、たとえば「エモい」「すごい」といった一言で表現できてしまう。悲しいとか、苦しいとか、楽しいとか、それらをさらに昇華した表現だとしても定型的なラベルを貼り付けているだけだ。
いたって平和な僕の日常では、生死に関わる身体的な痛みと「苦しい」「悲しい」「怖い」といった心の叫びは結びつかなくなっているだろう。
僕たちが悲しんでいても僕たちに死は迫らない。ホラー映画で恐ろしい人喰いが現れても、僕たちは傷つかないし、当然死なない。ドキュメンタリーで戦争の光景が映っていても僕たちは死なない。命に嫌われている!

エンターテインメントを摂取しすぎた。感情は、感情として心を満たした。それが正でも、負のものだとしても、空白を埋めてくれた。
単に周囲の環境から僕が甘やかされすぎたからなのかもしれない。幸せに対して不幸が足りないから紛い物で嵩増しされているのかもしれない。だとすれば、やはり由々しき事態ではあるのだろう。ますます僕は僕を嫌いになり、僕は一生向上しない。

つまり浮かんできたのは『「楽しい」は良い感情で、「苦しい」が悪い感情だという価値観は正しいのか?』という問い。
たしかに喜びに溢れていることが人を殺すことはないが、悲しみに満ちていることは人を自殺に追い込むかもしれない。
しかし、適量ならば薬なのではないか。薬と毒は表裏一体。
負の感情も、人類になくてはならないクスリだということは、意外に広く共有されている価値観だったかもしれない。

別段「苦しい」だけを摂取したいわけではない。楽しいことがなくては死んでしまう。だが同時に、苦しいことが無かったとしてもぼくは死んでしまう気がしているのだ。楽しさと苦しさの均衡は、ただ自分の欲求に従って摂取していれば勝手にバランスが取られる物だと思う。ずれていっても、それが自分の性格だったということだ。だから気にしなくてもいい。気づけば日常生活でも自らリターンのない危険を冒そうとすることがあるかもしれないけれど、まあ刺激的でいいんじゃないか。こういうのもまた破滅願望の種になる。

中二病風に自分の心はちょっとおかしいのだとすれば、終わり往く寂しい可哀想な人。
それとも、やはり苦しみが必須栄養素であることが人間への普遍的な定めなのであれば、人間が雑食動物として生まれたせいで苦いピーマンも好き嫌いなく食べなくては健康に生きられないように、本来は絶えず進歩し努力をさせるために心の構造がそうなっている。だが努力という苦に触れに行く必要もないと気づいた人間は、やがて手軽に感傷を摂取しだした。ただ、そういうことなのだと思う。
ヒロインが笑っていても泣いていても、オタクたちは「良い」と思うだろう。
綾波レイが「心がぽかぽかする」と言っても「心がちくちくする」と言っても、僕らは「良い」と思うだろう。人によるだろうけど。

心の整理と、もうどうだっていいよね!という嘆き。
そして、やはり感傷は必要とされているということだ。 

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