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自殺しようとする妄想をして、終わりかけ大学生になる

自殺しようとする妄想をしています。「しようとする」妄想なので、自殺しようとする寸前で女の子に救われるところまでがセットです。とんだ甘ちゃんですね。
自殺する妄想、または脳内自己否定により、自分を可哀想なところへもっていきます。そうすることで、いろいろと曖昧になります。自分を否定し続けているのに、なぜだか許されていい気がしてきます。意識が負の感情に溺れて、自分の外見が意識下から消えます。甘えることを自分に許され、甘えている醜態が自意識から外れることでようやっと、甘えられるようになるのです。

いつのまにか、自殺や自虐の想像が安らぐためのツールにすらなってしまったのかもしれません。安らぐための精神的自傷、これは矛盾しているようで矛盾ではありません。以前戦争映画をみたあとの幸せな百合漫画が格別だという話をしましたが、その延長にこの行為があるのかもしれません。いったん自分を傷つけて麻痺させ、幸せに浸れるようにしています。かわいくなりたかったと思います。かわいくなりたかったです。可愛い外見を持てば、想像やフィクションに頼らずとも、他者が甘えさせてくれる。そうでなくても、自分で相手に癒やしを提供しながら互恵的に甘えることができる、そんなとっても可愛い外見を手に入れたかったです。しかし生物学的に雄として生まれた以上、それは叶いません。甘えるという希望の選択肢が立ち現れたその時、私は醜い弱者男性としての自分への嫌悪感を思い出します。だから自分を壊して、甘えられる状態にもっていっています。すべては私の幸福のためです。

ですが、だんだんぬかるみにはまってきたのでしょう。自分を傷つけなくては安らげない。これは不健全でしょうね。自虐という行為はすべて自己完結できるので、他者への興味が薄れていくようです。他にも弊害を挙げればきりがないでしょうね。
もっと踏み込んで一つ問います。そこで自分を傷つける行為はただの準備なのでしょうか。それとも前戯なのでしょうか。前戯のほうがきもちいいってこと、よく聞きます。私には、私が精神的自傷に別種のマゾ的快感を覚えている気がしてなりません。自虐とはなにがしかからの解放です。自身からの低評価によって他者からの低評価を塗り消す。そのほかにも嫌なこと、すべて自虐で塗り消していく。盲目的な現実逃避。私は徹底的に、どん底なんかじゃない浅い底で、自虐状態に浸ります。自分の心が悲鳴をあげている。その痛みがきもちいい。
幸せのための自虐ではなく、自虐のための自虐。自虐自体が快感。もしそうなら、かなり終わってます。褒めてくれてもいい。自家発電モンスターの誕生です。

しかしぼくは弱いので、当然自虐だけでは心がもちません。自虐と安堵の両輪で快感をえています。私が甘える対象は、ASMR配信者によるシチュエーションボイス、または脳内の美少女、都合よく解釈したVTuber/漫画やアニメのキャラクターなどです。
ぼくは想像のなかで自殺しようとします。時間帯は夜で、海岸とか屋上とか、ひと気がなくて暗い静かなところがいいです。とっても寂しくなれるので。
そこでぼくと親しい中にあるのだろう想像上の美少女が現れます。手を引いて、あたたかいお家へいっしょに帰ってくれます。それから、ぜんぶ、許してくれます。または、死のうとしたぼくを怒ってくれます。
しらふでは全肯定をうけいれられなくても、散々傷ついたあとなら涙を流しながら甘やかしを享受することができます。好きだよーっていわれたらぼくも好き!って思います。よしよしとか、ぎゅーとかされたら泣きます。または自殺未遂によって彼女を傷つけてしまったことを悔い、さらに自責できもちよくなります。最高です。ごめんなさい。

ごめんなさい。急に謝りたくなったので書いておきます。ごめんなさい。

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