新型コロナ時代想(10)・・・政府の休校要請

突然?の休校要請

まだダイヤモンド・プリンセス号の問題の余韻が残っていた2月27日、安倍首相は突然、「全国全ての小学校、中学校、高等学校、特別支援学校について3月2日から春休みまで臨時休業を行うよう要請する」との発表を行った。これは突然の発表であり世間は大混乱に陥った。その前日には安倍首相は大規模スポーツ・文化イベントの二週間の中止・延期・規模縮小を要請しており、その結果PerfumeやEXILEのライブが当日に中止となっていたので、予兆はあったとも言えるが、正直唐突感はあったと思う。

この休校要請に対しての反応は、
(1) 共働き家庭の特に母親が休業しなければならないというものと、
(2)そもそも休校要請への医学的根拠がない、というものだった。
後者はもう少し詳しく触れると、その当時は「子供は感染しない」「重症化のリスクは高齢者」と言われており、子供の学校を休みにしても医学的な効果がない、というもので、さらにこの要請は専門家の意見を受けてのものではない、という手続き的な点も指摘されていた。

ここでは、この休校要請をきっかけに起こった議論を評価するとともに、休校要請が果たした意味を世間で議論されているのとは全く異なる視点から提示してみたい。

子供は感染しないのか?

ここで、若年層の感染リスクについての医学面での議論に私は疑問を持った。「感染しない」「重症化しない」「ウイルスを媒介しない」という別の事象が同じレベルで議論されていたからである。
「若年層の重症化リスクが低く、死亡者が少ない」ということは現時点でも否定はされていない現象だとは思う。ただ、これが因果関係をもって証明されているものなのか、それとも単に現象としてみられる相関関係に止まるのかについては安易には判断できない。重症化を助長する基礎疾患の保有率が高齢になると高くなることが作用している、といったことも考えうる。
また、「若年層の感染リスクが低い」という点については免疫力などで説明できるかもしれない。ただ、「感染リスクが低い」というのと「感染しない」というのは別物である。そして若年層でも感染者が発見されていた状況においては「感染しない」ということを前提にした休校要請措置への批判は妥当しなくなる。言い換えれば若年層であっても「感染する」のであり、その程度の問題である。そして接触・飛沫感染が懸念されていた状況では、高齢者より活発に身体的接触を行う傾向のある子供における感染拡大の可能性は必ずしも否定できない(実際には6月の段階で北九州の学校でクラスターが発生している)。
さらに、子供達が「ウイルスを媒介しないか」ということについては「感染」を議論しても意味がない面がある。ウイルスは感染者の細胞内でしか増殖しないと言われており、あるレベル以上のウイルス量がないと感染が生じないのではないか、との推測もできたが、他方つり革や手すり等の物体の表面に残存したウイルスでの感染も懸念されていた。そういう意味で子供達という「物体」がウイルスを媒介するという可能性は排除できなかった。

蒲郡のスナック感染事件

同じ頃感染経路という点で注目すべき事案が発生した。新型コロナウイルス感染者が陽性判明後に故意にスナックを訪れ、そこの従業員に感染が発生したというケースである。なぜ私が注目したかというと陽性者が入店してからの動きがビデオに記録されていたからである。このビデオとウイルスのDNAを解析すれば、感染のパターンを推定できるはずである。驚いたのは感染したのは陽性者の隣で接客した従業員ではなく、陽性者が休息したソファーを使用した別の従業員であったことである。つまり、同じ状況をあてはめると電車の座席を通じても感染しうるということが導き出せるのである。しかし、残念ながらこのような分析を見かけることはなかった。

休校要請はどう機能したか?

この休校要請によって様々な変化が起こった。共働きの女性が休業せざるを得ない状況が生じ、特に医療関係者や保育士といったエッセンシャル・ワーカーへの影響が問題となった。そして同時に社会が新型コロナに真剣に身構えはじめた。つまり、この休校要請は「新型コロナウイルス感染拡大はヤバイ状況にある。国民は真剣に対応してくれ!」というメッセージを伝えるものであったと言える。この翌日には北海道は独自の緊急事態宣言を行い、事態はどんどん悪い状況に流れていくのだが、この時点で一般の意識は十分に高まっていたとは言えない。私自身は毎日の通勤での感染ストレスや、会社でのコロナ議論などを通じて適宜状況を把握していたと思うが、家に帰ると在宅の家族にはそこまでの危機感は伝わっていなかったと感じた。その一例として、妻が日頃から参加している婦人会のイベントの件がある。婦人会の平均年齢は高く(妻はその中で一番若手)、一旦クラスターが発生したらリスクの高い集団なのだが、「決まっていることだから」と主張して参加を主張し喧嘩になった。おそらく、ずっと家にいてテレビのみで情報を得ているのと外で肌で感じているのとでは現実感のレベルが違うのだろう(これは私自身がテレワークで家に篭っている時にも実感した)。そういう現実感の薄い層に対して、危機感を共有してもらうためのクライシス・コミュニケーションとしてこの休校要請は非常に効果的だったと思う。

クライシス・コミュニケーションとしての休校要請

果たしてこれを安倍首相が、そして政府が意図していたかはわからない。ただ、このコミュニケーションは効果としてはテキメンだった。今振り返って「あの時学校は続けた方が良かった」(休校すべきかどうかではなく、休校と開校の二つのオプションがあった時にどちらを選ぶか、という選択)と言い切れる人はいないのではないか。また、この要請をクライシス・コミュニケーションを性格付けると医学的根拠の欠如云々の批判は妥当しなくなるし、子育て家庭への配慮についても休校の是非ではなく、そういう時代における子育てと就業のあり方の議論に移行することになる。
日本の国会の議論も、ワイドショーの世論も政府のやることにケチをつけることしかしてきていないので、この休校要請の政治的選択を今更評価するような声はあまりみられない。この時点においてはそもそも緊急事態宣言の根拠となる新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正も行われておらず、イベントの自粛も休校要請も根拠のない中、国民に呼びかける形で政治的リスクをとった安倍政権について、私は素直に称賛したいと思う。なお、普段は現政権の対応については必ずしも褒められたものではない、という印象は持っているのだが。
この後、政府も都道府県も、専門家も半ば広報合戦とでもいうかのように色々なキーワードを用いて国民に呼びかけはじめた。シン・ゴジラの大杉漣首相の台詞で「名前は付いていることが大事」というのがあるが、その名前で何を伝えたいのか、ということがもっと大事だと思う。



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