民主主義は何のためにあるか?

民主主義は、必ずしも社会をよりよく導く制度とは言えない。ナチス党は健全な民主主義のなかから生まれた。であるならば、なぜ民主主義は、これほどまでに、(これといった代替制度が思いつかないほどに)社会に浸透しているのか? 民主主義は、社会にとってどのような機能・役割を担っているか?

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ある時期までは、(そして人類社会のある部分ではこうしているいまも)確実に人間が世界に素手で触れているという実感を得るために機能していた最大の幻想こそが僕らの民主主義だ。かのウィンストン・チャーチルはこう述べた。「実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことができる。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが」と──チャーチルはここで、おそらくは機能面から民主主義を(アイロニカルに)肯定したはずだ。だが民主主義はむしろ、人々の心の拠り所として必要だったのだ。世界に素手で触れているという実感を与えるために、必要だったのだ。
 ついこのあいだまで、今日のグローバルな経済とローカルな政治という関係がまだ成立せず、インターナショナルな政治にローカルな経済が従属していた時代まで、世界に素手で触れているという実感はむしろ政治的なアプローチの専売特許だった。だからこそ、20世紀の若者たちは革命に、反戦運動に、あるいはナショナリズムに夢中になったのだ。民主主義とは、このあいだ少なくともこれまで試みられてきたあらゆる制度よりも確実に、誰にでも世界に素手で触れられる実感を与えてくれるものだった。そして、少なくとも世界の半分ではこうしているいまもそうあり続けてしまっている。この1票で、世界が変わると信じられること。僕の考えでは民主主義の最大の価値はここにある。だが、皮肉なことだがこの強力な機能のために、いま、民主主義は巨大な暗礁に乗り上げてしまっている。

『遅いインターネット』宇野常寛著

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本書の問題意識の中心的な記述箇所。

民主主義は、「世界に素手で触れられている実感」という幻想を市民(あるいは大衆)に与えるための装置である、という。

ローカルな共同体で生活し、ローカルな生産活動を行う人々が、「世界に素手で触れられているという実感」を得る機会はそうそうない。世界は、遠い彼方にある異空間でしかない。政治は、テレビという箱のなかで行われるエンターテイメントショーにすぎないし、経済は、自分たちとは無関係に記述される新聞の見出し文章にすぎない。そのような人々が、唯一、「世界に素手で触れられているという実感」という幻想を抱けるのが、民主主義(あるいは選挙)という制度なのである。

うん、たしかに。

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