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ショートショート4 香織の声

十月二十一日 
笹野は、同僚である竹本の家にいた。テーブルを挟んで向かいのソフアに座る竹本は笑みを作っている。テーブルには新聞があった。見出しには高齢出産増加の文字が躍る。竹本の妻がコーヒーの入ったカップ二つ運んできた。笹野は手刀を切って頭を下げた。一口、口に含み飲み込む。
 「今日来たのは杉本 香織について聞きたいと思ってまして」
その名前を出すと竹本の表情に翳りがみえた。 
 「何が聞きたい」竹本は気の入らない声をだす。
 「どういう関係だったんですか?」
 笹野はある確信があった。竹本は妻の顔をちらりと見る。 
 「今は言えない。」不愛想に答え、腕を組む。
 笹野は言葉を選んでいるようだった。
 「はっきり言ってください」
 暫く沈黙が流れる。竹本は妻を前に香織との関係について言い出せなかった。
 「不倫だった」竹本は意外にもか細い声だった。
 「やはり、職場でも噂になっていました。」
 笹野は竹本の妻を見やる。その表情は虚を突かれたようなものだった。
「でも、おととい別れを告げたんだ。職場のある一室で彼女は何度も涙ながらに考え直してくれないかと懇願していた。それを聞いていると別れを撤回してしまいそうになったが僕から言った手前、心を鬼にして応じないようその時は、努力していた。泣きわめく香織の手が私の肩に伸び私は、それを払いのけてそれじゃまたとだけ残して私だけ去った。それじゃまたと言ったことを自嘲したよ。どうせこの職場にいる限り香織には会うのだから、さよならと言えなかった自分が、情けなく感じた。別れを切り出して尚も何か期待していた自分がいたんだと思う。別れを切り出した理由は妻のお腹に子が宿り自分の身の周りを整理しておこうとおもったからだ。申し訳ない」最後の言葉は妻に向けられていた。
竹本の妻は真一文字に唇を結んでいた。その表情からは込み上げるものをこらえているようだった。俯き手を強く握りしめている。
 「だが昨晩も着信があり、香織から私の事好き?と何度も問う電話があったんだ」
笹野は訝しい表情をした。
 「でもそれは絶対にありえないんだ」
 竹本は言うと笹野は顔を引きつらせる。
 「言いたいことはわかります。でもその頃杉本は」
笹野は生唾を飲む。
携帯電話をとりだし、画面を笹野に見せた。
 笹野は顔を強張らせてしまった。
 
十月二十日
 竹本は職場から持ち帰った仕事を書斎で片づけていた。書類の作成。自分が他人を評価する立場なのが辛い。パソコンに向かっていたせいか目に疲労感を覚えた。目頭を押さえ自分の肩を揉む。笹野の提出された書類をチェックしているとふと昨日の夕方を思い出す。香織とのやり取りを瞼を閉じ、その裏側に映像を映しだす。机が並ぶ一室には黄金色に染まる日差しが窓から伸びていた。机の影が斜めに映る。適当な机の椅子に座って待っていると香織が部屋の戸を開けて入ってきた。喜々として口元を綻ばせている。
 「正明、どうしたの?」
 声色に弾みが帯びていた。
 肩まで伸びた髪。膨らみが特徴的な唇に右の涙袋の下にある黒子。
 「その呼び方はここではやめろと言っているだろう」
 「いいじゃない。誰もいないんだし」
 そう言って香織は隣の椅子に座り腕を組んできた。
 「話って奥さんと別れてくれたとか?」
 「いや、違うんだ」
 「じゃあ何?」
 香織は腕を離し、目と目を交わらせる。香織は真顔だった。
 「別れてくれないか?」
 竹本は香織の表情をじっと見、続ける。
 「妻に子供ができた」
 「だから?」
 「子供が産まれる前に君との関係を終わらせたい」
 香織は俯き声を絞りだす。
 「いやだ。ダメなところがあれば直すから、お願い別れないで」
 目の下にある黒子が濡れていた。こぼれ落ちる雫を拭い香織は竹本の肩に手を伸ばす。
 竹本は払いのけ席を立った。香織は声を上げ泣いていた。泣きわめいていた。
 竹本は後ろ髪を引かれる思いだった。
 「それじゃまたな」
 それだけ言い残し竹本は去った。引き戸が無機質な音を立てて閉まる。
 そのあとの香織は知らない。香織は次の日、休みを取った。
 パソコンの画面に目を向ける。仕事を終わらせ早く寝ようと思っていた。
 スマートフォンが着信を告げる。画面には杉本香織とあった。竹本はまだあきらめきれないのかと思い電話にでた。
 「どうした」
 電話の向こうで香織がいう。
 「ねえ?正明、私の事好き?」
 声色から明るさを取り戻しているように思えた。はにかんだ笑い声が聞こえる。
 うふふ。聞きなれない声に不気味さを感じる。
 「もう俺たちは終わっただろう」
 「ねえ?私の事好き?」
 香織は竹本を無視して続ける。そしてまたうふふ。
 「要件はなんだ?」
 「ねえ?私の事好き?」
 竹本の声が届いていない。
 「ねえ?私の事好き?」
 「だからなんなんだ!」 
 声をあらげてしまった。
 「ねえ?・・・・・せんせ」
 「おい、香織!」
 そこで通話が切れた。
 ツーツーツー。耳の中で機械音がこだまする。
 竹本は放り投げるようにスマートフォンをおいた。席を立ちリビングに出る。
 妻が誰かと電話をしていた。竹本が出てきた時慌てて通話を切る素振りを見せた。
 「あら、どうしたの?」
 「水を飲みに来たんだ」
 台所に立ち蛇口をひねる。勢いよく出る水をコップ並々に注ぐ。
 「誰と電話だ?」
 「あ、お友達よ」
 妻は竹本と目を合わせようとしなかった。洗濯物を畳む。
  
  十月二十一日
 「確かに通話履歴がある」
 笹野は竹本のスマートフォンの画面を見る。腑に落ちない様子だ。
 「俺もよくわからない。説明がつかないんだ」
 「僕もなんと言っていいかわかりません」 
 笹野はいう。少しの沈黙の後、竹本が言った。
 「だが、昨日、木で首を吊り死んでいた。香織が死んだであろう時刻に俺の携帯に電話が来るはずがない」
 竹本の妻は震えていた。
 
一年前 四月七日
 高校二年の頃。杉本香織ら生徒は席に座り新任の担当教師を待っていた。女子生徒はイケメンらしいなどと言い色めきだつ。校庭の木々には桜の蕾が咲き誇る準備をしている。風に乗って花びらが散るものもあった。教頭が新任の先生と教室に入り、
 「皆、静かに」
 生徒たちは一斉にに教頭を見る。
 「今日は赴任してきた先生を紹介する。」
 黒板に向かい名前を書く。
  笹野 隆司 
 それが新任の名前だった。担当は科学。香織は顔を見て確かに端正な顔立ちと身体というのが率直な感想だった。皆、笹野を見てざわめく。だが香織の興味は笹野ではない。竹本だ。
 入学当初、竹本に一目ぼれをしてしまった。香織の家庭は母親一人だった。物心ついた時父は居なかった。母からは死んだと告げられていた。父親の愛情を感じずに育ったためか年上の異性を好きになる傾向があった。同級生は皆子供、そう思っている。初体験は中学二年、相手は高校生だった。香織は何かの本で読んだ記憶がある。こういった傾向を持つ障害の名を境界性パーソナリティー障害または愛着障害と。幼い頃に愛着形成をされずに育つと人間関係の形成に影響を及ぼす。香織はそれなのかと思う事があった。
 「今日から皆の担任になる笹野です。」
 よろしくと言って頭を下げた。
 香織の視線は笹野に向けられていない。その隣の教頭、竹本だった。
本能的に父親の愛を求めていたのかもしれない。出会った日から香織は竹本の気を惹かそうと努力した。竹本の靴入れに手紙を毎日入れた。返事は毎回なく無視されていた。香織は諦めず手紙を入れ続けた。ある日の放課後、竹本から呼び出だされた。
 「もう手紙はやめてくれないか?」
 呼び出された時は淡い期待はしていた。だが、こう言われる事もわかっていたつもりだった。
 「私の気持ちは変わりません。先生が好きです。」
 「そう言われても僕の気持ちは変わらない」
竹本は何も言えなくなった。
 「本気じゃなくてもいいんです。先生と一緒にいたい」
 「何度言われても杉本さんとそういう関係にはなれない。」
 そういって竹本は去った。

一年前  五月十日
竹本と笹野は警察に呼び出された。杉本香織が万引きを働いたというのだ。コンビニで百円足らずのチョコレートを会計を通さず出ていこうとしたのだ。
店の控室には沈んだ表情の香織と向かいにはコンビニの責任者と思しき男がいた。
「この店の店長の酒井と言います。親御さんが来られないとの事なので学校の方にと思いご連絡差し上げました。ご足労頂きありがとうございます。」
香織の目の前のデスクには万引きしたチョコレートが置かれている。
「なんで、こんなものを」笹野は思わず声にする。
香織は俯いたまま何も答えない。笹野には泣いているように見えた。
「さっきまでね、ちゃんと受け答えしていたんですけど」
酒井は困惑した表情を見せる。
「まあ、初めてというので警察には連絡せず、学校の方でも穏便にお願いします。」
酒井にそう言われ笹野と竹本は申し訳ありませんと言い頭を下げた。
「さあ帰るぞ」竹本は香織にいう。
香織は何も答えず立ち上がり、部屋から出ていこうとする。
「待ちなさい」笹野が言い引き留めようするが香織は構わず出ていく。
「今日は本当にすみませんでした。」
再度頭を下げ二人は香織の後を追う。
コンビニの外にでた竹本は香織の腕をつかむ。
「離して!」
香織は声を荒げ腕を振り払う。
そして背を向け歩きはじめる。
「笹野君、杉本さんは僕に任せてくれないか。住所もうちの近くだしな」
「けど教頭」
笹野は腑に落ちない顔を見せる。
「なんとなく今日の万引きの理由が分かるきがするんだ」
「申し訳ないですよ」
「いやいいんだ」
「わかりました。無事送り届けてやってください」
「わかった」
笹野はそう言ってタクシーを拾った。
タクシーに乗り込んだ笹野は車内で頭を下げた。
香織の後を追い呼び止める。
「杉本君」
香織は竹本の呼びかけに歩を止める。
「やっぱり来てくれたんだね」
振り向いた香織ははにかんでいる。
「万引きなんて冗談はよしてくれ。君がこんなことして僕を呼ぼうとしたんだろう」
「先生の言う通りだよ」声に出して笑う。
「だって先生とわたしもうすることしちゃったもんね」
「あれは間違いだ」
手紙をやめさせようと呼びだした後も手紙は続けて竹本の元に届け届られていた。

十月二十日
 「ねえ?私の事好き?うふふ」
 竹本は電話の後、香織の声が頭にこだましていた。
 その声は次第に不気味さを増し低音交じりになり、気味が悪い。
 またこだまする。うふふ。
 手紙を断り続けていたの頃妻との関係が良くなく喧嘩ばかりしていた。
 互いに些細な言葉がきっかけだった。離婚を考えていた時、再びの手紙。
 断りのため再びよびだしたある日。
 「先生、また呼んでくれたんだんだね」
 「杉本君」
 体育館倉庫だった。どうかしていた。妻との離婚を考えていて感情が不安定になっていた。
 「手紙をやめてくれ」と言い出した時、香織が背後にあるマットに竹本を押し倒しキスしてきた。やめろと言って押し返すこともできた。香織の舌が竹本の口内に侵入する。だが男の本能は正直になり大きくなる。理性では拒否しているのに遮る力もない。むしろ本能の赴くままに従っていた。前戯をする。してしまう。香織の声は次第に大きくなり竹本の下腹部も硬直を増す。香織が上になり咥える。淫靡な響きがこだまし思わず竹本は声を上げた。
 「先生も人間ね」そう言ってうふふと笑う。また咥える。竹本は香織を押し倒し香織の中へと侵入した。動かせば香織の甘い声が広がり何も考えられなくなる。夢中だった。絶頂へ達してしまった。香織の中に広がる竹本の体液が入口から漏れる。滴る体液はマットへと落ちた。まるで湖でもあったかのような染みが広がっている。事の終わり、香織は学生服を着ていた。
「先生、私二番手でもいいからつきあって」笑みを浮かべる。
体の関係を持ってしまった後悔が襲う。それと先ほどの快楽が勝り不本意ながら頷いてしまった。体の関係だけ。その後も何度も情事を交わしてしまった。そのたび繰り返される後悔に贖い繰り返してしまう情事。もう抜け出せなくなっていた。

妻は洗濯物を畳んだ後、キッチンに移動していた。
「あなた、私子供を産んでいいかしら?」
突然の問に虚を突かれた顔をしてしまった。
「あたりまえだ、俺たちの子供だぞ」
「うん、出産を前に不安になっちゃって」 
女性によくある情緒不安定なのだと思っていた。
「でもあなたに聞けてよかったわ」

十月二十一日
妻を目の前に香織との関係を話すのはつらいものだった。
妻は相変わらず伏し目がちだった。拳を握りしめている。
「教頭、杉本香織との事ありがとうございます」
笹野は頭を下げる。安堵した吐息を漏らし竹本は喉がからからになっていることに気づく。
目の前のコーヒーカップを手に取り口に含む。冷めきったコーヒーは竹本の喉を潤す。喉を鳴らしていっきに飲み干してしまった。
「いつもおいしいコーヒーありが・・」
そう言いかけた竹本は苦しみだしその場に倒れる。自分の胸倉を掴み床を地団駄踏むように音を立てる。妻の足を掴み助けを乞うが声にならない。
絶命する瞬間、笹野の口元がにやりと片方の口角が上がっているように見えていた。
 
初めて香織と会った時、僕は衝撃を受けたんだ。
久しぶりだった。一目ぼれだった。今まで一目ぼれという感覚は味わったことがなかったがこの世にこの感覚があることという事が信じていなかった。だが今僕は信じている。僕は香織と一緒になりたい。結婚をしたい。香織を思えば出てくる欲望。抑えることはできなかった。だが結婚はできない。香織には夫がいる。邪魔だ。そう思っていた。仕事を理由に何度も家に行った。そしてアプローチ。口説いたんだ。何度目かの時香織はその気持ちに答えてくれた。香織の家で、夫と寝ているであろう寝室で初夜を迎えた。
「私、あなたと一緒にいたい」
香織も同じ気持ちになってくれた。それから僕らは香織の夫を殺害する計画を立てた。好都合だったのは夫がほかの女と不倫していることだった。杉本香織。不倫相手の名前。よりによって自分の勤めている学校の生徒に手をを出すなんて笑ってしまう。万引きした日夫は杉本香織の後を追っていた。僕はタクシーに乗り自分の家に向かわず香織の家に行った。竹本香織。名前が同じ。笑ってしまう。杉本香織が万引きをした日、僕は香織と情事を迎えていた。そして香織は妊娠した。僕の子を産みたいと言われた時は嬉しかった。いたずらのつもりでボイスレコーダーで杉本香織の声を取り、パソコンを遠隔操作し香織の夫にかけたことがある。自殺した後だったのでその驚きようは二人して笑ったものだった。科学教師だ。青酸カリなんて容易に入手できる。僕は熟女が好きだ。昔、本で読んだことがある。自負もしている。境界性人格障害だと。          
                          終

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