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ショートショート1 君の声

本の虫とよく言うが、本当にいるらしい。
私は活字を見ていないと落ち着かないほど近くには本があった。そして、本の登場人物に合った声を想像し、物語を読み進めるのが私の本の読み方だった。
今読み進めているのは夏目漱石『三四郎』
明治時代の結ばれぬ格差恋愛を描いた作品だ。
このカフェに入る前に本屋に立ち寄り購入したものだった。
本屋に用事がなくても私はフラッと立ち寄る。用がなくても3時間くらいはそこにいるのは平気だった。
長時間いても運命の出会いはない事が多い。
今日は違った。この「三四郎」が妙に気になり購入してしまった。夏目漱石ファンではないのに。レジ店員がなにか話してくれているが私には聞こえない。早くこの本を読みたいという衝動が勝り構っている余裕は最早なくなっていた。それからはカフェに向かう足取りが速くなる。カフェの店員に案内されるや否や本を読み始めた。店員はまだそこにいる。なにか言っているが私は本の世界に入り込む。
主人公の声を当てはめる。いわゆるイケボとか言われる声を想像してみたり、ダミ声を宛ててみたり読書を楽しんでいるが未だにイケボと言われるような声を聞いた事がない。
これは自分にとってイケボだとかそうじゃないという抽象的な判断ではなく、聞いた事がないのだ。
もし、こんな声だったらいいのにそんな淡い感情を持ちながらページを捲る。
声を想像するのとしないのでは読書のペースが違う。ぴったりの声を想像した場合、胸が躍りページを捲る手は止まらない。その瞬間はミーハーになり快感を得る事が出来た。
口角が上がりまくりだった。

物語最初の方で列車の窓から弁当殻を捨て後ろの席の女性に直撃した場面にはカフェにいるにも関わらず笑ってしまった。
いつの時代にもマナー違反はいるものなんだと。弁当殻を捨てたあと女性に謝り怒りもせず許してくれている様は滑稽に思えた。
ましてはその女性と旅館で一夜を共にするなんて展開が面白すぎて笑いが止まらない。
主人公が女性の誘惑をなんとかあしらい、旅館側が用意した1つだけの布団を掛布団を丸めて壁を作り寝た描写で攻防戦が伺える。
帰る時に「意気地がないのね」と言われるシーンは体を震わせた。
そこまで読み進めてると肩を叩かれて前を見る。
彼だった。笑顔をこちらに向ける。私は今日話があると言われこのカフェで待ち合わせしていた。
昨夜、普通ならどんな話なのだろうか気になって眠れないなんて事になるのだろうけど確かに眠れなかった。彼の話も気になるが昨日読んでいた本が終わりかけだったからだ。別れ話?なんて嫌な想像を抱きながらも読書欲を満たしていると待ち合わせの時間より1時間も早く来てしまったらしい。
そして三四郎を読んでいたのだった。
「待った?」
彼はごめんという意味で手刀を切った。
「ううん、待ってないよ」
彼に向かい満面の笑みを向けた。
鼻筋が通って端正な顔立ち。
イケメンなんていう人もいるだろう。
店員が来て、彼はコーヒーを注文した。
「今日は何を、あ、三四郎をよんでいるんだね。学生の頃読んだ記憶があるよ」
と彼がいうと私は序盤の面白さを熱弁した。  その気迫に押されながらも目を見て聞いてくれている。
「あ、私ばかりごめんなさい」
顔を赤らめる。
「いいやいいよ。それで話なんだけどさ」
彼はコーヒーをすする。
私物のバックから手話に関する本が覗く。
職業柄、彼は耳の不自由な人とやり取りする機会が多いらしい。
そのための勉強本だった。
勉強熱心な彼を私は応援している。
彼は一呼吸入れると
「同棲しないか」と言った。
私はハッとした表情の後、頬を緩ませた。
まさかの同棲。生きていてこんなに嬉しい事はない。
「一人暮らし大変だろ?僕が支えになるから」
 彼はそう付け足すとその先に結婚があるような気がして素直に喜んだ。
同意の旨を伝えると彼は満面の笑みでガッツポーズした。他のお客さんの注目を浴びてしまいすいませんと彼は周りに言う。
「もう!恥ずかしいじゃない!」
と聞くと彼は頭を搔く。
辺りを見渡してから
「よし、海に行こう」と彼がいう。
はにかみながらも承諾した。
記念日じゃ!などとおどける彼。
笑みを浮かべながらその様子を見守る。
会計を済ませ、店外に出るとタクシーを拾った。
車の窓から見える景色をみながら私は彼の声を当てはめる。私の好みの声だろうかなど想像を膨らます。
彼に会う前は必ずそうしている。
私にはいろんな物の音、声を想像する癖がある。
だから海の波音も彼の本当の声も聞いた事がない。
                                            了



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