見出し画像

なぜ、お菓子をつくるのですか?

 暑さが厳しい今年の夏、皆様いかがお過ごしでしょうか。今回は、表題のとおり、お菓子をなぜつくるのか?これにまつわる2つの小話を紹介したいと思います。最後までどうぞお付き合いください。

【目次】
1.函館・アンジェリック ヴォヤージュのこと
2.神戸・ユーハイムのこと

1.函館・アンジェリック ヴォヤージュのこと
 6月の函館は平均気温は16度、最高気温は20度、最低気温は12度ほどにまで上がって、北海道でも漸く温かさが感じられる季節になった。梅雨の本州と異なり、爽やかな晴れ間が眩しい。散策日和のこの時期、函館山の麓を20年振りに訪れた。

明治18年ごろの基坂(旧イギリス領事館のHPから)

 江戸末期の安政6年(1859年)、横浜や長崎と共に開港した函館は西洋の文化を積極的に吸収し咀嚼してきた。いまでも、そこかしこに洋館や教会堂が残り、明治の息吹を感じる港町である。コロニアルスタイルの洋館、旧函館区公会堂から港へ下る大きな坂は基坂(もといざか)と呼ばれている。

函館旧イギリス領事館(ウイキペディアから)

 この坂の途中に、旧イギリス領事館がある。ここには開港から75年間、ユニオンジャックの旗を掲げて、この町の発展を見続けてきたのである。数回にわたる大火の後、現在の建物は大正2年(1913年)に竣工した。昭和9年(1934年)に閉鎖されるまで領事館としての役割を全うした。

  平成4年(1992年)市制70周年を記念して復元、一般公開を始め、令和5年(2023年)カフェスペースをリニューアルオープンしたのである。今回のお目当ては小さなケーキ屋さんなのだが、その前にちょっと寄り道をしよう。

 旧イギリス領事館に併設するカフェ「ヴィクトリアンローズ」はアンティーク家具が置かれた優雅なひと時を醸し出す。ここの名物がアフタヌーンティーセットでサンドイッチ、スコーン、ミニケーキに紅茶がつく。

アフタヌーンティーセット(ヴィクトリアンローズのHPから)

 都内の高級ホテルでも同様のセットは用意されているが、明治時代の英国領事館そのもので味わう醍醐味にはかなわない。明治11年(1878年)夏、日高のアイヌ部落へ向かうイザベラ・バードも、ここから港を眺めたことだろう。これから蝦夷の最奥地へ赴く彼女を追体験しながら味わう紅茶はまた、格別なのだ。函館の洋菓子文化をリードしてきたのがここだった。

アンジェリック ヴォヤージュ

 旧領事館を出て基坂を下り、交差点を西へ折れて少し行くと、左手にひと際こじんまりとした造りの洋菓子店がある。店の名はアンジェリック ヴォヤージュ。本日のお目当てはここの銘菓 ショコラヴォヤージュである。北海道産の生クリームと上質なガナッシュを冷凍にした小さなケーキだ。

ショコラヴォヤージュ(アンジェリック ヴォヤージュのHPから)

 ばら売りはやってないので、宅配を頼むことにした。同店の人気メニューとしては生クリームと季節のフルーツを使用した、賞味期限30分のクレープもお勧めだ。観光客と地元の御常連はむしろこっちの方がお目当てなのだ。

 北海道旅行を終えて帰宅した後、待ちに待ったショコラヴォヤージュが我が家に到着した。生クリームをガナッシュでくるんだ濃厚な味わい・・・。

   濃厚にして、何とまろやかなことか・・・。

 同封されたちっさなパンフレットを見て感心した。そこには、このケーキの詳細なレシピが記載されていたのである。

おウチでも作れちゃうんです!(中略)とっても簡単♫ 是非一度作ってみて周りの人を喜ばせてくださいね。

 普通、職人は絶対にレシピを明かさない。そんな中でこの店では笑顔での菓子作りを心掛ける。食べた人の心を豊かにし、さらにその人が大切な人のために菓子を作る。また、笑顔になる。これぞ、小さなチョコレート一粒がつなぐ幸せの連鎖なのだ。笑顔と幸せな時間の提供、お菓子作りの原点と言えるだろう。

2.神戸・ユーハイムのこと
 神戸・元町の老舗洋菓子店、ユーハイム本店を訪れたのは初夏のころだった。お目当ては、もちろんバウムクーヘンである。店内には同店の歴史が展示してあり興味深い。ユーハイムの創業者はドイツの菓子職人、カール・ユーハイムである。彼は1886年(明治19年)ドイツに生まれたが、中国青島の喫茶店に勤務していた。のちにユーハイムとして独立したものの、第一次世界大戦の時、進駐してきた日本軍によって広島県似島(にのしま)の捕虜収容所に送られたのだった。

カール・ユーハイム(ウイキペディアから)

 戦後の1919年(大正8年)、広島で開かれた似島独逸俘虜技術工芸品展覧会に現在のバウムクーヘンを出品したところ、これが好評だった。そのため、この年(1919年)をもって、日本にこの菓子が伝来したものとされる。この催しを開催した広島県物産陳列館は、後の原爆ドームである。

カールが出品した広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム:ウイキペディアから)

 彼は日本に留まり妻子を呼び寄せ、横浜で洋菓子店を開いた。関東大震災で被災したが、神戸に居を移して再開する。しかし、息子も戦死して失意のうちに終戦の前日(1945年8月14日)、六甲山ホテルで妻エリーゼに看取られて亡くなった(享年59)。彼の最期の言葉は「平和はかならず来ます。お菓子を食べられるのは平和の証(あかし)」だったと言う。

カールの終焉の地 六甲山ホテル(ウイキペディアから)


 戦後、1947年(昭和22年)連合軍によって、ドイツ人のエリーゼは国外退去を迫られたが、6年後に再来日した。1971年(昭和46年)、神戸で死去(享年80)するまで、会社の再建に奔走したのである。彼女は生涯、「何のために菓子作りをするのか」を問い続けたのだった。それは夫のカールの遺言でもある「世の中に笑顔を届けるため、世の中を平和にするため」だったのである。

ユーハイム本店

 添加物を一切使用しない純正にこだわる菓子作りを追及し、それには高い技術力の裏付けも求められる。彼女の意志を継承する株式会社ユーハイムでは、バウムクーヘンはその主力商品に成長した。日本全体でも大手を含む多くの企業がこれを商品として取り込み、市場は大いに活況を呈している。

ユーハイムのバウムクーヘン(同社のHPから)

 一方、この菓子のルーツであるドイツでは、二度の世界大戦とその後の東西ドイツの分裂と混乱により、技術継承もままならず一部を除いてポピュラーな菓子ではすでになくなっている。「お菓子を食べれることが平和の証」と言ったカールの言葉が何とも重い。

 店で購入したお菓子でなくても、今は亡き母の焼いてくれた手作りのアップルパイやパウンドケーキなどが懐かしい。ウクライナ、パレスチナをはじめ、菓子どころではない、日々の糧さえままならない地域も世界には多く存在する。菓子を食べれる喜びをしっかりと味わおう。これが次世代にも継承できることを願いながら。(了)