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押川 剛 『子供の死を祈る親たち』新潮文庫(2017)

押川 剛 『子供の死を祈る親たち』新潮文庫(2017)を読んだ。

※私の所属するジェイラボの公式部活動『基礎教養部』の活動の一環で挙げています。公式部ログ、800字書評は下記リンク先↓

https://www.j-lectures.org/document/kodomo_oya/

書評において

自身を取り巻く“家族”から一度、ラベルを外してみて、そこに在る実態を見つめ直すきっかけとして、本書を手に取ってみても良いのではないだろうか。

と書いた。書いてはみたが、いざ自身のことに置き換えるとこれは中々恐怖心を伴うものであると気づいた。何か隠れていた不都合な真実が見えて気はしまいか、と不安になった。ただ、こういう機会でないと自身を振り返ることはあまりないので、備忘の意味を込めて自身の“家族”について少しだけ振り返ってみようと思う。

私はごく平凡なサラリーマン夫婦の次男として生まれた。父が転勤族であったので幼いころから関東、中国、九州と転々とし、青春時代の多くを九州で過ごした。父は典型的な亭主関白で家庭のことは何もせず、母に任せきりであった。ただ、放置していたわけでは決してなく、よく構ってもらっていた記憶があるし、家族でキャンプや旅行にも何度も行った。母は、好奇心が強く、気性も激しい人で絵画や語学等を趣味で続けながら家計を支えるべく外に働きにも出て、家事もすべてやっていたので、本当に寝る時間もなく過ごしていたんじゃないだろうか。母ばかりが忙しそうで母がかわいそうだ、という気持ちを何となくずっと持っていた。今思えばもっと家事を手伝っておけばよかったと思う。
 両親の喧嘩は時に苛烈で、大声を伴い、幼いころの私は階下のリビングで大きな声が聞こえると、2階の子ども部屋からそっと出て、1階に聞き耳を立て、ケンカが一定のラインを超えたら止めに入ろうと息を潜めて、よく状況を伺っていた。あの時の不安な気持ちはよく覚えている。必死にケンカの文脈を子どもなりに把握、整理して、どう介入すればよいのかと頭を巡らせていた。時に、あえて子供らしい無邪気さ、無理解さを装って、介入したこともある。
 また、私が高校生の頃、父の転職失敗、不景気、自宅罹災(火災全焼)等が立て続けに発生し、家庭は経済的に困窮し、父はそういった経済的やりくりには無関心であったことから、母もストレスが募り、不安定になっていた。このころ、私は若干反抗期のようなメンタリティになっていたのだが、それよりも家庭の困窮、母親の精神への心配が勝り、『自分は冷静でいなければ』と常に考えていた記憶がある。ローンの借り換えシミュレーションや、学資保険の一部解約など、様々な金策を勉強し、母に偉そうに講釈していた。私の反抗期的精神は、両親のメンタリティや家計のやりくりは俺が支えている、という若干ゆがんだ精神的優越性と同化し、結局“反抗”という形で表出することはなかったのではないかと思う。
 少なくとも、少年、青年期の私にとって両親とは大きな不安の種の一つであった。ただ、こうした体験、家族状況を単純に反面教師として捉えるべきではないとも感じている。少なくとも私は、この胸に抱える不安と引き換えに両親への精神的依存から確実に卒業できたし、今でも両親に強い愛情を持っていると断言もできる。両親の関係性になんの不安もストレスもなく過ごした子よりもその面においては格段に繊細・緻密な思考をしてきた自負がある。

上記は私の立場から見た家族像のほんの断片である。少しネガティブな面にフォーカスして書いたが、両親の関係は今はもう少し安定しているし、当時も不和ばかりではなかった。
本当はもっと大量に吐き出し、自身の総括をしてみたい気もするが、せっかくの休日、他にもやりたいことがあるので、本日はここまでにしよう。

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