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【表現研】人はなぜ人形を怖がるのか、というはなし

 先日、引っ越しの荷造りのため戸棚をひっくり返していると、昔母親からもらったクマのぬいぐるみが出てきた。50センチほどの割と大きいこげ茶のぬいぐるみでガラス製のまんまるの黒い目が縫い付けられている。もらったのは確か小学3年生くらいだったと思う。私は幼いころは内向的で人形遊びが好きだったのだが、その頃にはすでに放課後友達と草野球をすることを覚え始めていたので、正直、大きなクマのぬいぐるみをもらってもあまり嬉しくなかったような記憶がある。しかし、買ってくれた母親への申し訳なさからか、当時はそれなりに大事にしたと思う。なんとなく話しかけたりドラゴンボールフィギュアと戦わせたり、兄との幽遊白書ごっこのゲストにしたり。しかしそれも余り長い期間続かずにいつしか実家のクローゼットの中に放り込んでしまった。そしてそのまま十数年以上眠ったままになっている、、、はずだった。それが今、私の家のこの部屋で私を見つめている。「不思議なこともあるなあ」とクマを両手で掲げ、ガラス製の目をじっと眺めているうちになんだか背筋が冷えてきた。在るはずの無いぬいぐるみが今手元に在るという状況に私のホラー脳がスイッチを入れたのである。大学で上京してから何回引っ越した?これ、見たか?今までは引っ越し屋に任せていたから気づかなかっただけか?・・・映画のワンシーンさながらに周りを確認した私はそのクマをバスタオルで巻き、段ボールに梱包した。現在は新居のクローゼット上段左奥に鎮座している。
 ぬいぐるみ、もとい人形に関する怪異譚は巷にあふれている。有名なところだと、『髪が伸びる市松人形』やオットー家の『ロバート人形』、稲川淳二の伝説的怪談『生き人形』などがあるだろうか。それぞれの話の真実性は分からない。しかし、それらの人形に対し多くの人が恐怖を感じているというのは紛れもない真実である。和歌山県の淡嶋神社ではありとあらゆる種類の人形達の供養が行われている。5年ほど前に一度訪問したが、境内一面を占める目、頭、口は異様であったし、それら人形の目は我々人間の身勝手さを非難しているような気もして物悲しくも感じた記憶がある。
 われわれ人間は自分の姿に似せて人形を作り愛玩する。あたかもその人形に生命が宿り、意志があるかのようにごっこ遊びに興じる。幼いころに創作した人形のパーソナリティなどの設定は、自身がやがて成長し理性や分別をわきまえた後も残滓として残る。もし、人形との関係性が継続して維持されていればその人形のパーソナリティは自分だけが感じることができる愛着へと繋がる。もし人形との関係が断絶していれば、その人形のパーソナリティそれ自体が恐怖の対象となりうる。10数年ぶりにガラクタの奥から見つけ出したクマの目が私に何かを訴えかけてきたように。
 人形に意志性を求め、そしてそれが錯覚であると知りながらもその錯覚を楽しむのが人間と人形との関係性の本質である。そして人形から感じられる意志性を錯覚ではなく、真実だと感じてしまった瞬間、あるいは錯覚であるとの確信が少しでも揺らいだ瞬間、ごっこ遊びは終わる。残るのは生命のまねごとをした不気味な無機物とそれを見つめる有機物だ。
 人間の脳は3つの点が集まると人間の顔のように感じてしまうようにプログラムされているらしい(シミュクララ現象)。他者に相対した瞬間に敵味方を判断したり、相手の感情を読み取ったりする必要があるのでこうした認知現象が起きるとのこと。壁のシミが人の顔に見えたり、粗い心霊写真といったものはほとんどこれで説明がつくそうだ。一方で、不気味の谷現象と呼ばれるものがある。人間は人間にある程度近いロボットには好感を抱き、より近く(だが微妙に違う)ロボットは気味悪く感じ、そしてほとんど人間と区別がつかなくなるとまた親近感を抱くという「仮説」だ。ロボットと人間との類似性と好感度との間の関係性が線形ではなく、谷が存在するというものだ。では、壁のシミさえ人の顔のように脳内補正してしまう人間が、なぜ人間により近いロボットには一種の違和感を持ってしまうのだろうか。人間は人形を眺めるときに、人間との類似性を楽しむものだが、それは『対象は人間とは根本的に異なるものだ』と認識する理性の自分が外にいる前提である。これは不気味の谷現象の“ある程度近い(あまり似てない)”ロボットを見るという状況に対応するのではないだろうか。そしてその似姿がより人間に近くなり、判別が危うくなる時人間は恐怖するのだ。外部に置いていた理性的な人間が存在できなくなり「あれ?これ本物?でも微妙に違うか。いや、でも・・ひょっとしたら・・」と疑心暗鬼に陥る。これがいわゆる不気味の谷じゃなかろうか。不気味の谷現象は何もビジュアルだけが問題で生じるのではなく、人形の内面(=内面が存在すると信じる人間の心)によっても発生するのだ。(※1)
 人間は理性的な認識のもと、人形を楽しむ。しかしそれは自身の理性を部分的に錯覚させる危ういゲームである。人形モノホラーはあえてその一線を越えた理性の混乱状況を楽しむという意味でかなり倒錯的と言えるのかもしれない。(※2)そんなことを考えながら、呪いの人形系ホラーを漁る今日この頃。

※1:変則型チューリングテストを題材にした『エクス・マキナ』という映画でもこうした論点は取り扱われている。とても面白い映画なのでSF好きの方は是非。)
※2:人形をちょいちょい“似姿”と表現しているのは押井守『イノセンス』の影響かもです。

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