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第四話:歯医者

 二、三日前より入れ歯を失くしたと言ってしょげているぶっこちゃん。つい先日作ったばかりの入れ歯らしい。それ以前は入れ歯などせずとも平気でいたくせに、今日などはマスクまでして家の中をごそごそ探している。
「おーはーようさーん」
 玄関先から高い声が響いた。耳の遠いぶっこちゃんにも聞こえたらしく、もそもそ探していた顔をひょいと上げた。
 声の主はぶっこちゃんの娘、しのぶの叔母に当たるメイコである。
「お母さん、入れ歯失くしたんやて?」
 その声にぶっこちゃんは口を押さえる。
「あ、それ言うたらあかんねん、気にしてるみたい」
 しのぶが小声でメイコをたしなめる。
「え、そうなん?」
 ぶっこちゃんの目が泳いでいる。
「歯医者行こうかぁ、入れ歯、歯医者にあるかもしれんでぇ」
 メイコはぶっこちゃんの背中をぽんぽんと叩いて誘う。
 叔母のメイコは近所に住んでいるものの、自身の息子一家と同居していて更には娘一家とも隣同士のために孫の世話で忙しい。その上暇を嫌う性格なのか内職までしている。更には友人も多く、始終家には誰かが話しに来て手作業しながら口も忙しい。そんな多忙な人だけになかなか自身の母親の面倒に手が回らない状況だったが、それではしのぶに悪いと言って、病院やら何かしら特別の用事がある際に手を貸してくれるように自然と役割分担された。
「しのぶちゃん、いつもありがとうなぁ、これ食べて」
 メイコは気遣いにも長けていて、しのぶへは毎回来る度に何か手土産を持ってくる。
「おばちゃん、いつもありがとう」
「それな、今日発売開始らしいわ、ミスドの新商品」
「そうなんや、ぶっこちゃんよろしくお願いします」
「ほな、行ってくるわ」
 笑顔でぶっこちゃんの手を引く。当のぶっこちゃんは、きょとんとしたまま、車いすに座らされた。
 ふと、その手に何か持っている。見ると入れ歯ではないか。しかも三つも。
「あれ、入れ歯あるやん」
 メイコはぶっこちゃんの手元を覗き込んで言う。ぶっこちゃんはそれを、隠すように胸元に引き寄せた。
「これちゃうねん。肝心のがあらいんねん」
 だそうで、結局入れ歯を握りしめたまま、ぶっこちゃんは運ばれて行った。
 暫くして帰ってきたぶっこちゃんは満面の笑みをたたえていた。
「こんなにうまいこといくなんてなぁ」
 しのぶを見るなりそう言った。
 メイコの話では、どうやら所持した三つの入れ歯の中にお目当ての入れ歯があったらしい。やはり入れ歯を使用する人にとって大切なんやろうなと思いきや……
「先生も、一緒になって喜んでくれはんねん」
 このことが、ぶっこちゃんにとって一番の喜びだったらしい。入れ歯を失くして不自由という以上に、せっかく作ってもらったものを数日で失くしてしまったという先生への申し訳なさがいちばん、ぶっこちゃんを落ち込ませていたらしいのだ。そしてその先生は、処置するだけでなく一緒になって喜んでくれた。そのことが何よりぶっこちゃんは嬉しかったらしい。
 医療って、治療も大事だけど、こういう関わりも大事なんだ。ほんの些細なことなんだろうけど、時に治療以上の効果がある。しのぶの心が、温かくなった。
 

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