ユーレカの日々[24]複製力の不思議と不気味
初出:日刊デジタルクリエイターズ 2013年07月24日
先日、ある印刷通販会社の人と話をしていて、3Dプリントの話になった。その会社でも、3Dプリントのサービスを始めたのだという。素材も樹脂や金属、陶器など色々選べる。
話題の3Dプリンターだが、一般の人にとっては「なにに使うの?」というシロモノだろう。生活の中で、小ロットの立体物をオリジナルで作らなくてはならない場面、というのはほとんど思いつかないし、なによりデータを作る部分がネックとなる。
その会社でも、まだ手探りだと言うことだったが、面白いなと思ったのが、レリーフ立体が作れるというサービス。3Dソフトを使えなくても、イラレのレイヤーを使って各面の高さを指定することで、ロゴやシンボルなどを立体オブジェにすることができる。
なるほどこの方法なら3Dアプリを使えない人でも、データを作ることができる。3Dには縁が無いがグラフィック系であればできる、という人は多いだろう。
これで作れて用途があるもの、といえば「表札」や「エンブレム」だ。これならこのようなデータ指定で可能だし、需要も充分ある。街の表札屋さんと比較しても、フォントの自由さ、形状の自由さだけでも魅力的だ。
産業や流通さえ変えるかもしれないと言われている3Dプリンターだが、表札のような身近なモノから浸透していくのかもしれない。
< http://www.graphic.jp/lineup/graphic3dprint >
複写機黎明期
3Dプリンターの今を見ていると、コピー機が普及しだした40年前の状況を思い出す。
その昔、「複写機」は仕事のための道具で、家庭や個人で使うものではなかった。複写はコストや手間がとてもかかる事だったのだ。控えが必要なだけならカーボン紙を使って、書くときに複写を作る。
企業や学校でなら、配付用に数量が必要ならガリ版印刷機を使う。また、製図の世界ではトレペと印画紙を使うジアゾ式複写機(青焼きコピー)が使われていた。
どの方法にも共通して言えるのは、「複製を取るなら、それぞれ指定の方法で原稿を書く必要がある」点だ。ガリ版は版をひっかいて作るし、青焼きはトレペに描く。だから「本のページを複写する」という用途には使えないのだ。本などの複写は写真を使うが、こちらは日数もかかるしコストも高かった。
ガリ版はちょうど、ガレージキットでシリコンゴムで型をつくりレジンで成形をするのと似ている。手が出ない技術ではないが、だれでも気軽にできるというわけでもない。
この状況が変化したのは1959年、普通紙(PPC)コピー機が発明されてからだ。PPCコピー機が革命的だったのは、版を作らなくてよい点。だから手間がいらない。どんなものでも平面であれば瞬時に複写できる。3Dプリンターが「型がいらない」のと同じだ。
当初は大企業など限られた用途だったのが、徐々に価格が下がり、精度が上がり、70年頃から街の文具店などでサービスがはじまる。80年頃にはコイン式のサービスが増え、だれもが気軽に使えるものになった。
おそらく当初はそれほど需要があったわけではないだろう。そもそも生活の中で複写をしなくてはならない用途が少なかった。コストが下がることで、学生のノートや、日常のメモ、趣味で作る印刷物など、用途が急速に広まる。マンガの同人誌というものがはじまったのも、丁度この時期からだ。
3Dプリンターが普及しだせば、新しいユーザーがいろんな所から出てくるだろう。今は「わざわざ作るほどでもない」ことが、「作ることがあたりまえ」に変わっていくに違いない。
PPCコピーが普及した時期に高校生〜大学生だったぼくは、自分の描いた絵を手軽に「印刷物」として量産できることに夢中になっていた。コピーしてまわりに配ったりしていた。それは、自分でメディアを作ることができる、という以前に、「複製が作れる」という魔力に夢中になっていたのだ。
複製という魔法
複製は魔法だと思う。印刷物や工業製品のように「大量に同じモノが存在する」という状態は、まるで魔法のようだ。それは自然界においてほとんど見られない状態だからだろう。
たとえば植物。木は一本一本、枝ぶりが違う。葉の形もみな違う。魚や、昆虫などは、ひと目にはまったく同じモノに見えるが、並べてみればやはり、大きさや太り具合、ヒレの大きさなど、微妙に違う。個体差がある。
一卵性双生児の人たちと会うと不思議な感じを受ける。双生児の方々には失礼な言い方になってしまうが、「まったく同じものが複数存在する」ことを、人は「不自然」と感じてしまう。それでもその人を知っていくと、違いがわかってくる。やはり、別の人なのだ。
僕が子どもの頃、まだ世の中には単純で、身の廻りの道具の多くは、金属や木や竹でできていた。これらも大量生産品ではあるが、人が手で作った痕跡や、個体差が子どもでも見て取れた。たとえば籠や、窓ガラスやガラスコップ。どれも厚みにムラがあり、どれも微妙に違った。
大量生産される工業製品、というのを強烈に意識したのは、明治製菓の「チョコベビー」というチョコレート菓子だ。それまでお菓子のパッケージといえば、キャラメルのような紙箱、またはサクマのドロップのような金属の缶が当たり前だった。
そんな時代に、チョコベビーのパッケージは「肉厚の透明なプラスティック」だったのだ。それはまるでガラスのように透明度が高く、それでいて、ガラスよりも軽く、割れても砕けなかった。
手作りの跡が見えない均質さ、平滑さ。不思議な形状。そしてそれが大量に存在し、安価に手に入る不思議。食べ終わったあと、それを自分の自由にすることができた。透明度の高い、曲線の樹脂ケースは、とても大切な宝物だった。
どうすればこんなものが作れるのだろう? 大人になったらこういうものが作れるようになるのだろうか? そんな事を考えていた。
その後、そういった樹脂製品は「射出成形」という技術で生産されることを知った。
まず原型は木などで人が手で作る。これは彫刻だから、なんとか自分でもできそうだ。それを元に、金型が作られる。これはもう、特別かつ高価な技術で素人が手を出せるものではない。さらにそれを使う射出成形機も個人で使えるシロモノではない。
つまり、チョコレートのパッケージとしてプラスティック製品を作るには、大金が必要ということだ。大量に作る必要があるということだ。それだけの理由がなくては、作ることを許されないモノだと知った。自分ひとりではそう簡単に使うことができない生産方法。やはりこれは魔法だ。
そんなわけで、僕の中には「手作りよりも、大量生産される複製品の方が格が上」という価値観が形成された。その後、世の中の道具類はどんどん樹脂製品に置き換わり、安価になっていったが、この刷り込まれた価値観は今でも僕の中に根ざしている。
ガンダムよりもザクが好きな理由
高校時代、はじめてガンダムを見た時、チョコベビーの事を思い出した。それは敵のモビルスーツ「ザク」が、意志を持った夢物語のロボットではなく、道具として、そして大量生産品として描かれていたからだ。
今の若いガンダムファンと話してみると、ガンダムの方が好き、という人が多いが、40歳以上のオッサン達は圧倒的にザクが好きだ。これはおそらく、ザクが大量生産であることと無関係ではないと思う。僕と同じような原体験をしてきた人には、やっぱり大量生産品の方が格上なのだ。
敵役のシャアが乗る、専用モビルスーツという設定にもグッとくる。ザクもズゴックもゲルググも、シャアの乗る機体は普通の兵士が乗るのと同じ、大量生産品なのだ。それをカスタマイズして「通常の三倍」まで性能を上げている、という設定だ。
自動車でも自転車でも、マニアは皆、大量生産品に手を入れて自分好みに改造する。一点モノを作る方がハードルが高い、ということももちろんあるが、それよりも「同じモノなのに高性能」という点が萌えポイントなのだ。
一点モノは、上手く作れれば最高だが、失敗するリスクも大きい。それに比べ、量産品は多くの人々の智恵の結晶であり、それゆえ最低限の性能の保証がされている。これをベースに改良していく方が、リスクが低い。
そう考えると、ガンダムというドラマは「一点モノの芸術品」VS「大衆のための量産品」という構図が見えてくる。ドラマの中で「工業力はジオンの方が上」という描写が何度も出てくる。そういったところに高校生の僕はリアルさを感じ取っていた。
残念ながらドラマは連邦軍、ガンダム側の勝利で終わるが、オッサンファンたちはそれを「アニメだからしょうがない」となかったことにして、今もなお、ザクを愛してやまない。
ガンダムのようなスペシャル機はリアルに思えない。所詮お子様向けの夢物語だ。それに比べて、工業力や大量生産による安定が読み取れるザクの方が格が上なのだ。
複製のための絵=イラストレーション
同様の理由で、一点モノのタブローよりも、印刷されたイラストレーションの方が僕にとってずっと魅力的だ。印刷物にならないのなら意味がない、というくらいに重要なことだ。
こういう風に描くと、原画の良さもわからないのか、と言われそうだが、そういう話ではない。印刷で再現できない情報量が絵の具で描かれた原画にはある。それでも、印刷できないのであれば、僕にとってそれは殆ど意味をなさない。
だから複製をたくさん作る仕事に就きたかった。画家ではなく、イラストレーターになったのはそういうわけだ。
たまに、画家/芸術の方が格上だと思っている(おおむね年配の)人から、イラストなんかより、タブローを描けばいいのにというようなコトを言われることがある。ご本人には悪気はないのだろうが大きなお世話だ。印刷物の方が僕にとってずっと格上なのだ。
描くだけで終わる画家よりも、描いた後に人や資本や工場や機械といった複雑な工程を得てはじめて可能となる、大量に印刷されるイラストの方がずっと魅力的と思えるのだ。
同じモノがたくさん存在する不気味
同じモノがたくさん存在する不思議さは、裏返せば不気味さでもある。
小学校の低学年の頃、学校の講堂でディズニーのアニメ「ファンタジア」を見た。この映画の中の有名なエピソード「魔法使いの弟子」は、僕にとってトラウマ映画のひとつだ。
ミッキーマウス演じる魔法使いの弟子は、水くみの仕事をさぼるために、魔法でホウキに生命をあたえ、水くみの仕事をさせる。ところが魔法は制御不能になり、ミッキーは斧でホウキを真っ二つに裂く。するとホウキは分裂し、それぞれが動き出す。やがて、大量に複製されたホウキの群が悪夢のように迫ってくる......
これを見た小学生の僕は、何日も何日も、なんだかわからない大量のモノが自分に向かって襲ってくる悪夢に苦しめられた。思い出すだけでも恐ろしかった。
昆虫も一匹ならまだいいが、大群となると生理的な嫌悪感が増幅する。水族館で見るアジの大群も最初はキレイに思えるが、よくよく見ているとだんだんと不気味に思えてくる。
大量に同じモノがある、というのは不思議であり、不気味なのだ。
制服も不気味だ
制服、という大量生産品に感じる不気味さも同じだ。ファンタジアのトラウマだろうか、中学時代、詰め襟の学生服を着るのは本当にイヤだったので、高校は制服のない学校を選んだ程だ。
AKBの制服風衣装もどうも気持ちが悪い(ファンの方々、すみません)。皆が同じ服を着て、同じ行動をする、というのがどうしても生理的にイヤなのだ。ぼくがスポーツに興味を持てないのも、その8割はユニフォームにあると思う。
もちろんスポーツのユニフォームや、イベントのスタッフTシャツは機能としてのユニフォームだ。対戦相手や、一般客と見分けがつくようにするための機能だ。それはわかるし、必要なことだ。でもどうも、皆が同じ服を着ている、という状況を不自然と感じてしまう。
ビジネススーツはもっとキライだ。スーツを着たくない一心で、就職はクリエイティブ職をめざした。何か作る仕事がしたかった、というのもあるが、どっちかといえば、スーツを着たくなかったのだ。
制服ではないのに皆が「なんとなく同じ格好」をしている。この「なんとなく同じような格好をする空気」というのが、僕にはよくわからない。
おそらくビジネスの相手に対し「同じ仲間ですよ、敵ではないですよ」という事を示すためなのだろうが、明確に制定されたわけでもないのに、皆同じになってしまうのがよくわからない。同調圧力というのだろうか。
スポーツのユニフォームのように「敵味方を見分ける」という機能的な意味があってルール化するのならまだわかるが、そうでないところが気持ち悪いと思ってしまう。
同じ服を着て気持ちをひとつに、というような事を言う人がいるが、そんなことで気持ちがひとつになったと感じた事など過去、一度もなかった。逆に「ひとつ」として扱われることが気持ち悪くてしょうがなくなる。
工業製品と、制服。どちらにも同じモノが大量に存在する不思議と不気味さがある。なのになぜ、ぼくにとって前者は魅力的で、後者は気持ち悪く感じてしまうのか。今回、ここまで考えて、ようやくわかった。
これはやはり同じ力だ。同じモノを大量に作ることができる、というのは、力なのだ。支配力なのだ。
複製という力
ひとりではとても作ることができない工業製品や印刷物。それを作る事ができるのは、超越した力を持つことだ。一人の人間が出来ることを越えた力。それは複雑なシステムを制御できる力であり、支配力と言ってもいい。
逆に制服を着るという行為は、その力に支配されていると感じるのだ。だれかが決めた制服を自分が着る、ということは、その力に屈すると感じるからだ。
成す側としては快楽であり、成される側では苦痛。同じ事の裏表。
そう考えると、大量生産に感じる抗えない魅力は、結局は人間の支配欲なのか、と思えてくる。人々を「同じモノとして自由に扱いたい」という支配力と同じなのか。大量生産の魔力とは、そういうモノなのか。
3Dプリンターの時代
しかし、そういった感覚は今や過去のモノになりつつあるのではないかと思う。
PPCコピー機や、家庭用複合機が印刷技術を特別な事から普通の事にしたように、3Dプリンターは資本がなくてはできなかった、大量生産でしかできなかったモノ作りを個人に開放しつつある。ネットや電子出版は、印刷すら過去のモノにするのかもしれない。
もう大量生産は一部の人の特別な力、権力ではなく、だれでも使える普通の力になるのだ。魔法は人智を越えた技ではなく、普通の人の知恵として開放されるのだ。
大げさなことではない。産業革命で大量生産の時代が到来したことで、社会構造は民主主義・資本主義へと大きく変化した。ならば大量生産の時代が終わることで、また、社会構造は変化せざるを得ない。
そういった時代が到来した時、人間の支配欲はどうなるのだろうか。そういった時代に生まれた人は、僕ら前世紀の人間と同じように、大量生産の魔力に捕らわれ、権力を欲するのだろうか。
願わくば、他人を制御しようというような欲望から、人間が解放される時代であって欲しい。
追記:最近、大学の卒業生の朴玲華さんのマンガ制作に協力した(『曜里〜ただいま、ダルセーニョ』)。朴さんは在日コリアン4世で、朝鮮学校を舞台にしたマンガを描いている。朝鮮学校といえば、チマ・チョゴリの制服だ。チマ・チョゴリ制服について調べているうちに、それが日本の在日独自のもので、与えられたものではなく、生徒たちが自主的に作り出したものだということを知った(『チマ・チョゴリ制服の民族誌-その誕生と朝鮮学校の女性たち 韓 東賢 』)。
そういえば、自分が通った高校は制服が無かったが、入学時の生徒会のガイダンスで、それは先輩たちが勝ち取った権利である、と知らされたのを思い出した。
制服か、私服か、その結果は真逆だが、その経緯に共感できるかどうか、なんだろうな、と思う。
制服といえば、キル・ラ・キル。あの物語が大好きなのは、制服というものを徹底的に掘り下げているからかもしれない。そのうち、キル・ラ・キルについては書きたいと思う。
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