ユーレカの日々[39]ツギハギの世界/まつむらまきお
初出:日刊デジタルクリエイターズ 2015年01月21日 学生のイラストで、筋交いのある壁の真ん中に窓が空いている絵があった。これは間違えている!と思った瞬間、いや、今の日本にはありふれた風景なんだと思い出した。
昨年の秋くらいだったか、自転車でこけた。
朝、駅に向かう途中、車道から歩道に乗り上げる時にハンドルをとられたのだ。僕の乗っているモバイキーは車輪が小さいので、段差にはものすごく弱い。普段から注意はしているのだが、やってしまった。
歩道にふっとばされたが、幸い身体も車体も軽いかすり傷で済んだのだが、ジーンズのヒザに穴が空いてしまった。ひざも擦りむけ、しばらくするとかさぶたになった。ヒザのかさぶたなんて、小学校ぶりだ。
●つぎあての時代、つぎあての学校
一方、穴の空いたジーンズは自然には塞がらない。元々作業服として生まれたジーンズのいいところは、すりきれたり、破れても自然に見えるところだ。ビンテージもののジーンズでは、すりきれたり破れたりしたものを若い人がおしゃれとして身につけている。
僕のジーンズはユニクロだけど、まぁいいや(気にしない)ということでしばらくそのまま、はくことしにた。
そういえば僕が子どもだった頃、子どもたちの服は膝や肘がすぐにすり切れて穴があいた。繊維の品質が低かったのか、よくこけたからなのか。服がすり切れてくると、母親が「つぎあて」をしてくれたものだ。
子どもはみんな、つぎあてのある服を着ていた。その時代、マンガで「貧乏」を表現するためには、服につぎあてが描かれていた(さすがに差別的なので、現在ではご法度だろう)。
服が安くなり、繊維が丈夫になり、家庭からミシンが消え、やがて、つぎあてというものをほとんど見なくなった。ジーンズのように、やぶれた服を着ることも社会が許容するようになった。
さて、自転車でこけた場所のすぐ近くに公立の小学校がある。この建物、おそらく80年代に建てられたのであろう。どこにでもある、普通の鉄筋コンクリート3階建ての建物だ。
この建物、よく見ると、所々に大きな鉄骨の筋交(すじかい:柱と柱の間を対角線状に結ぶ構造材)がある。窓の外に鉄骨のフレームがあきらかに後付けで取り付けられ、鉄骨が窓をふさぐように「ばってん」を描いている。
窓の内部に同様の筋交がある箇所もある。まるで、やぶれたズボンにつぎあてしたようだ。
●誰が窓を塞いだのか
窓をふさぐような筋交。そういえばうちの子供たちが通っていた小学校でも、いつのまにか、同様の筋交がほどこされている。建築現場や倉庫のプレハブならともかく、こんなものは一般的な住宅や建築ではまず見られない。そりゃそうだろう、だれが窓の塞ぐようなことをしたいと思うだろうか。
そうだ、阪神淡路大震災。20年前のあの震災のあと、関西圏の公共施設では、建物の補強工事があちこちでなされた。震災前の建築基準法と、震災後の建築基準法では改正がなされ、また、既存の建築物も公共施設では補強工事がなされた。この筋交は、その工事によるものだ。関西だけではなく、全国でこういった補強はなされているようだ。
しかし、学校建築以外で、このような露骨で無粋な補強はあまり見ないような気がする。なぜ、学校ばかりがこのような補強になったのだろう?
学校建築というのは窓が多い。教室の外側も廊下側も通常、窓だ。また廊下も窓が多い。建築は窓が多いと弱くなる。壁が多い方が強い。住宅も窓は多いが、壁も多い。事務所ビルも外部に対しては窓だが、内部には壁が多い。
工場や商業施設は窓が少ない。学校は明るさの確保と、子どもたちの様子が教師から見て取れるようにするため、他の建築物と比べて圧倒的に窓が多い。そうか、学校建築は、もともと構造的に弱かったのだ。
そんなわけで、震災後、学校の窓に「バッテン」がつぎあてられたようだ。
耐震補強が必要なのはわかるが、かといって、窓にバッテン、はないだろう。多感な成長期の、多くの時間を子どもたちが過ごす空間が学校だ。その学校の窓をふさぐ筋交。まるで子どもたちが逃げ出さないようにする封印のように見える。
もし自分が学生だったら。そんな空間をとても好きにはなれないだろう。これでよし、とした人は、自宅の窓をふさぐ筋交があっても、平気なのだろうか?
僕自身は、自宅が補修工事で窓の外に足場が組まれ養生シートで塞がれていた期間は、それはもう気分が陰鬱になってしまったものだ。窓に筋交があるのはとても我慢できない。だれだって、それは嫌だろう、と考えて、いや、そうではないのかも、と考えなおす。
●気になるか、ならないか
うちの上の娘のiPhoneはガラスが割れている。以前使っていた4も、今使っている5も、画面が派手に割れて、そこにシートを貼って使っている。どうして修理しないのかと聞くと、とりあえず困らないからだと言う。
そう言われれば、けっこう割れたままスマホを使っている人を見かける。また、下の中学生の娘に聞くと、やはり学校の窓には補強の筋交があるという。気にならないかと聞くと、慣れたという。
個人的には、学校のような施設こそ、美しくあって欲しい。贅沢でなくても、ちゃんとしていて欲しい。そこで過ごす子どもたちは、窓を塞いであることを気にする人間に育って欲しい。
でも。僕自身も、ジーンズに穴が開いていても、気にならないのだ。ジーンズに穴が開いて気にしない人や、iPhoneのガラスが割れて気にしない人がいるのなら、学校につぎあてがあっても、気にしないことが普通なのだろうか。
●つぎあてが語る物語
そんなみっともない、学校の補強や、やぶれたジーンズや割れたiPhoneにも、いいところはある。それは物語だ。
ジーンズの穴を見るたびに、自転車でこけたことを思い出す。学校の補強を見る度に、阪神大震災のことを思い出す。子ども時代のつぎあてのあるズボンは、母が目の前でつぎあてをあててくれたのを憶えている。
そういえば、アスファルト道路もツギハギだらけだ。自転車のハンドルを取られたのも、そんなツギハギでできた、ちょっとした段差のせいだ。でもそこから様々な工事の様子、町の進化の様子を思い描くことができる。
絵を描くとき、キレイな状態のモチーフはつまらない。敗れたもの、壊れたもの、つぎはぎのものの方が、描いても見ても面白い。
なぜなら、そこに物語が感じられるからだ。物や風景だけを描いても、そこに人が介在していることが明確になるからだ。星飛雄馬も、ナイトメアビフォアクリスマスのサリーも、そのつぎはぎはキャラクターを物語る重要な要素だ。
そうか。だからこそ、逆に当事者はその過去を忘れたいと思う。失敗したことを忘れたいと思う。だからつぎあてではなく、補修をわからないように修理したり、建て替えたりしてしまうのか。
●平成のイコン
先日、テレビで特撮映画について紹介する番組をやっていたのだが、そこでハッとしたことがある。特撮映画「巨神兵東京に現る」で使われたミニチュアの学校には、うちの近所の学校と同様に窓の内側にバッテンがあるのだ。
映画のミニチュアにも演出がある。「それらしさ」を画面に醸し出すためには、現実をそのまま写していても弱い。このミニチュアのバッテンも、不要と思うのであれば省略していたはずだ。
そうなのだ。窓にバッテンがある学校建築は「平成」を表すイコンになったのだ。数々の歴史を語る建築と同様に。
広島の原爆ドームは、この国が戦争で無茶をし、原爆を落とされたことを今に伝えてくれる。この建築も、1960年頃までは取り壊し論の方が強かったという。
ウィキペディアによると「新聞は「自分のアバタ面を世界に誇示し同情を引こうとする貧乏根性を、広島市民はもはや精算しなければいけない」(夕刊ひろしま、1948年(昭和23年)10月10日付)」とある。
大震災から20年。学校の窓を塞ぐバッテンは、原爆ドームと同じく、醜い姿で過去の不幸を今に伝えている。それは震災を乗り越えた証拠なのだろうか。それとも震災以前の油断をあわてて取り繕った証拠なのだろうか。
今、そこに通っている生徒達は、当然阪神大震災のことを直接は知らない。はたして教育の現場では子供たちに伝えているのだろうか。なぜ窓がふさがれているのかを。
ひょっとしたら、この補強を計画した人は、見た目をキレイに体裁よくすることより、無骨であることを、醜くすることを、わざと選んだのかもしれない。忘れないために。物語を語るために。あんなに嫌だった窓のバッテンが、そう考えるととても大切なものに思えてきた。
すりむいたヒザのかさぶたの下からは新しい皮膚ができ、今ではなんの痕跡もない。やがて冬になり、穴の空いたジーンズは結局買い替えた。娘は、あいかわらず割れたiPhoneを使っている。
学校はもちろん、道路もあいかわらずツギハギだらけだ。ぼくはそんなツギハギの世界を、ハンドルを取られないように前よりも少しだけ注意深く、今日も自転車で走っている。
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