ユーレカの日々[59]絵画とデザインの境界線に佇むモノ/まつむらまきお
初出:日刊デジタルクリエイターズ 2017年03月01日
ディック・ブルーナが2017年2月16日に亡くなった。享年89歳。言わずと知れた、ミッフィー(昭和世代にはうさこちゃん)の作者である。
今ではミッフィーとして知られている、あのウサギのキャラクターは、1964年(ぼくが3歳の時)に福音館から発刊された「こどもがはじめてであう絵本」シリーズの中の一冊。
このシリーズは、けして「ミッフィー」が中心ではなく、ブルーナが絵本というものをデザインした、絵本のマスターピースである。
ブルーナはもともと、商業イラスト&デザイン(この時代では未分化)を仕事としてきた(昨年、ユニクロのTシャツでもこの時代のものがとりあげられていた)。
そんな彼がなぜ、絵本作家になったのかはわからないが、結婚した年に最初の絵本を作っているので、「こどもという存在にデザインはどう対応すべきなのか」という意識があったのではないだろうか。
●原体験としてのうさこちゃん
ぼくが幼稚園に上る前に、親からもらった、もっとも古い記憶の一冊が、この「うさこちゃん」だ。おそらく「うさこちゃんとどうぶつえん」か「ちいさなうさこちゃん」だと思う。
まさに、1作目と2作目で、今のミッフィーと比べると等身が高く、耳もピカチュウのようにとがっている。
同時期に好きだった絵本は「ちいさなおうち」「はなのすきなうし」「どろんこハリー」だった。どれも、今でも重版を重ねる名作だが、ぼくの中でもミッフィーは特にお気に入りだった。
前回の松本かつぢについて書いたユーレカを少し引用しよう。
「幼稚園の頃、弁当箱を入れるトートバッグを各家庭で手作りするのが慣例で、そこにはマーキングとしてアップリケなどを施す習慣があった。母に『どんな図案がいいの』と聞かれたわたしは、『うさこちゃん(ミッフィー)』と私は答えた。
母は『男の子だから、汽車とか飛行機がいいんじゃない?』と言ったが、私は頑として譲らず、実際二年間、ミッフィーのバッグで幼稚園に通ったのだ。」
●翻訳もすばらしい
ブルーナの絵本が日本でとても愛されているのは、その翻訳の力によるところも大きい。福音館版は、日本の児童文学の祖のひとり、石井桃子訳で、主役は「うさこちゃん」。
94年から講談社より刊行された「ミッフィー」バージョンの翻訳は、「魔女の宅急便」で有名な角野栄子。なんとまぁ、ぜいたくな。
ミッフィーの本名は、オランダ語でナインチェ・プラウス。これは「ちいさなうさぎ」という意味だそう。
だから「うさこちゃん」は直訳であり、「ミッフィー」は英語訳に倣ったものだそうだ(指輪物語の原作では「ゴクリ」、映画では「ゴラム」と同じ事情)。
ただ、「miff」は「むっとする」という意味なので、はてさて、どうしてそうなったのかは不明。なにか別の語源があるのかもしれない。ブルーナも認めている英語名だそうだ(商品展開などが行われてからの命名なので、おそらく商標登録という事情と思われる)。
●ブルーナ・メソッド
ブルーナはデザイナーなので、その作品には明確なメソッド、ルールがある。
一つめは色。ブルーナの絵本は、どれも「6色」+白と黒、合計8色で描かれる。この6色が、今の感覚で言えばちょっと不思議な組み合わせ。
ブラウン、柿色、レモンイエロー、グレー、ネイビーブルー、エメラルドグリーン。今の感覚で言えば、どれも彩度が高く、明度がバラバラで、色のハーモニーが作りにくい。
色相分布で見ても、紫がない。ブラウンとグレーは「子犬や子熊、うさぎや象を描くために」後年加えられた色だそうだ。
これらの色が選ばれた理由はよくわからないが、色数を決めているという事情は、この絵本の印刷が現在一般的なプロセスカラーではなく、特色多版印刷だったということだろう。
多色多版で、もっとも効果的な表現はなにか。手作業ではむずかしい、ムラのない色面。それぞれの色が明確であり、グラデーションはできない。明度が低い版は、明度が高い版を塗りつぶせる。その結果、あの絵が生まれてきたのだ。
実際、福音館版では、墨版が重なっている(オーバープリント)のがよくわかる。つまり、「絵としての色」ではなく、「印刷される色=イラストレーションの色」として設計されているということだ。
この時代の絵本は、多色刷り(多版)の方が一般的。当時のインク事情はわからないが、シルク版画と同じように、色の数だけ版を作る。「どろんこハリー」とか「11匹のねこ」とか、多版ならではの表現が魅力の作品が数多い。
二つ目は描線。最近のキャラクター商品では再現されていないものも多く、がっかりさせられるのだが、ミッフィーの線は、線ではない。あれは点描の面だ。
何年か前のブルーナ展で、ビデオで見ることができたが、鉛筆の下書きに沿って、丁寧に丁寧に、面相筆で点を置いていく。ミッフィーの絵を「簡単(シンプル)な絵」と言うヤツは、殴るか、笑い飛ばすべし。
あの線を描きたいとずーっと思っているが、その根気と情熱はぼくにはないので、ついつい、デジタルの「もどき」になる。
Adobe Flash(現Animate)は、昔から、ミッフィー風の「ボコボコ線」がベクターで描ける稀有なアプリで、ずいぶんと「ブルーナもどき」として利用してきたが、Animateになってから、それが再現できなくなった(多分バグ)。Adobeの開発者も殴ってやりたい。
また、その下書き、フォルムも、あれだけシンプルな形状でありながら、左右対称ではない。初期の作品ではより顕著だが、左右のバランスが微妙に異なっており、鏡像反転しても同じ絵にならない。どこか、いびつなのだ。
もちろん「コピペでよさそうなほど、同じに見える絵」でも、ブルーナは毎回、描く。これが強烈に「人が手で描いた絵」を印象づける。これはぼくも昔からマネさせてもらっている。
三つ目は「横顔がない」。
こどもに与える本を考えたとき、読者と「アイコンタクト」すべきだとブルーナは考えた。目を見て話す、ということ。情報を絵にするには、当然横顔もあった方が有利なのだが、そうすべきでない、とブルーナは考えた。
これは大した洞察力だと思う。絵本は挿し絵から進化した事情もあり、ブルーナ以前の絵本は「客観的な情景描写」が主流だ。
しかし、実は客観的な観察というのは、日常ではかなり特殊な状況(たとえばスカイツリーに登って関東平野を観察する)で、ほとんどは主観的な観察となる。客観と主観の区別がついていなこどもにとっては、そういった客観的な観察は、実は理解が難しい。
鳥瞰図的な絵は、こどもは大好きだが、それはその絵の部分から全体を理解する学習が伴うからだろう。
ブルーナの絵本では、たとえば「海に行きました」という表現を、引いた絵で描くことはしない。あくまでも、目の前のモノでだけで、それを描き、言葉とあわせてはじめて、理解できるように作る。
そして、常に対象はこちらを見て語りかける。これは親が読み聞かせする&ひとりの時に繰り返し見る、ということを考え抜いたフォーマットと言える。
●ブルーナの底力
ブルーナの恐ろしさを感じたのは、「ミッフィーとおどろう(2002年、講談社)」を見た時だ。
この後年の作品では、早期の作品の「こういうものをこどもに与えるべき」という思想から、「いやもう孫が可愛くて」という絵に変化している。やたら丸く、愛らしさが強調されるバランスなのだが、それ以上に凄いのが、年齢性差の描き分けだ。
この絵本では、ミッフィーがダンスにはまって、両親や友達といっしょに踊る、という内容なのだが、まず「両親と踊る」、その次に「祖父母と踊る」という構成がある。この4ページがすごいのだ。
ミッフィーのデザインは、極限まで単純化された「うさぎ」の記号だ。
しかし、ブルーナは「記号で描く」のではなく、記号化そのものを熟考の上に行っている。
たとえば特徴的な「口がバッテン(×)」は、バッテンではなく、上半分が鼻、下半分が口である。後年の作品では単純化が進み、「×」になっているが、初期の作品では、上の角度と下の角度が明確に異なり、記号の「×」ではない。
それほどまでに単純化されたあの絵で、あなたならどうやって「ミッフィの父母」「ミッフィーの祖父母」を描きわけるのか、考えてみて欲しい。
この命題に対して、ブルーナの回答はこうだ。
ミッフィーの鼻口は「×」だが、両親の鼻口は「*」。線が一本多い。これはシワ、髭と解釈できる(両親はまだ30歳前後だろうから、ひどい話ではある)。目鼻の位置も、ミッフィーよりもかすかに上に配置され、さらに服のデザインと色で、「オトナ」であることが示される(子どもが彩度が高いのは、他者から注目されないと実社会で危険だから)。
では、さらに一世代上の祖父母を、父母とどうかき分けるのか。これがすごい。
父母と祖父母は、連続する二見開きで描かれる。そのどちらも、正面を向いたツーショットで、背景はない。顔だけ見れば、父母と祖父母の見分けはつかない。だが、全身を見れば、明確にその差が描かれる。
父母の服はブルーだが、祖父母の服は黒。黒い服は喪服であり、死が近いことを予感される。
さらに、踊っている表現がすごい。両親は腕を上げているのに、祖父母の腕は下がっているのだ! これが五十肩だったり、元気がなかったりする表現となっている。これに気がついたとき、ぼくは全身に鳥肌がたった。ブルーナ、恐るべし。
そもそも、ブルーナご自身の顔が反則だ。どうみても、ブルーナのイラストのまんまの顔をされている。記号とは、観察に基づく抽象化である、と体現されているようだ。
●絵画とデザインの境界
いつだったか、学生から「イラストと絵画とデザインの違いって何なんですか」と聞かれたとき、とっさに「その境界線には、ミッフィーちゃんがたたずんでいる」と答えた。
イラスト、絵画側から見た時、ミッフィーよりも単純化、最適化をすすめる向こうは「デザイン」という意味だ。
たとえば、非常口のサインに描かれる人物は、記号だ。絵画に描かれる人物は絵だ。ではその境界はどこにあるのか。
いささか乱暴だとは思うものの、ブルーナの描く絵は、デザインでもあり、デザインでもなく、絵画でもあり、絵画でもなく。童画ではなく、イラスト。
時代背景を考えても、実に絶妙な境界線(閾値)にあると思う。
これは、頼もしくもあり、恐ろしくもある存在だ。絵描きであれば、ミッフィーを超えると、絵としてのアイデンティティが揺らぐ。デザイナーであれば、ミッフィーを超えれば、デザインとしてのアイデンティティが揺らぐ。
まるで、「千と千尋」で静かにたたずみ、時に凶暴化する「カオナシ」のような存在ではないか。
ある意味、これは「絶対イラストレーション」と言ってもいいのかもしれない。「なんでもあり」なイラストレーションというものを定義する時、基点となる存在ではないか、と密かに思っている。
そしてそれが、絵本として愛され、キャラクターとして愛され、映像化され(立体アニメより、2Dイラスト版がいい。声&歌が壮絶カワイイ)、おそらく、これから100年は愛され続ける。
ブルーナがイラストやデザインや、あらゆるモノに与えた影響ははかりしれない。ブルーナがいなければ、ぼくはイラストレーターになっていなかっただろう。デザインも絵本も、理解できなかっただろう。
ありがとうブルーナさん。やすらかに。
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