ユーレカの日々[58]これからのカワイイの話をしよう/まつむらまきお

初出:日刊デジタルクリエイターズ 2016年12月14日

宝塚にある、手塚治虫記念館に『松本かつぢ展』を見に行った。松本かつぢは、大正〜昭和にかけて、少女雑誌を舞台に活躍した挿絵画家・マンガ家。同時代に活躍した高畠華宵や中原淳一と比べると、あまり知られていないが、人気作家だったという。

村上もとかのマンガ『フイチン再見!』では、主人公であるマンガ家・上田としこの師匠として登場している。

昭和の可愛い!をつくった男とは

かつぢを知ったのは、何年か前に初めて訪れた、東京の弥生美術館の書籍コーナーだった。この美術館は、高畠華宵のコレクションを持つ美術館で、挿絵を中心に様々な企画展を行っている。
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp

ここの企画展の多くは『らんぷの本』(河出書房新社)というシリーズで書籍化されていて、その一冊が『松本かつぢ 昭和の可愛い!をつくったイラストレーター』だ。以前、かつぢ展があった時に出版されたらしい。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309727514/makionnet-22/

表紙には、『きいちの塗り絵』にも似た、いかにも時代がかった幼女の挿絵。ヤギはディズニーテイストだ。パラパラとめくってみて衝撃が走った。僕はその時までこの人をまったく知らなかったのだが、この本を見て、すっかりこの作家の虜になってしまった。

かつぢは、少女小説の挿絵からはじまり、挿絵だけでなく、数多くのマンガも手掛けた。手塚治虫も「好きだったマンガ家」として挙げている。また、童画や絵本も多く、戦後はベビー用品のキャラクタービジネスを手がけるなど、縦横無尽に活躍した人だ。

作風もどんどん変えていった人で、当初は華宵のようなリアルで耽美な作風だったものが、やがてディズニーのようなデフォルメを効かせたシンプルなフォルム(この時代の挿絵やマンガが一番好きだ)や2等身キャラが生まれる。

メディアも作風も多彩なことが、かつぢがあまり知られていない(忘れ去られた)要因なのだろうか。

つくづく上手く、センスのよい人だ。どの仕事、どの絵柄も、その文脈で文句なく上手い。どの仕事も「フロンティア」であったこと、現在の様々な作家にその影響を見て取れることを考えると、まさに「昭和の可愛いをつくった男」である。

なんて冷静に言ってられるのは、原画展に行くのが三度目だからであって、2013年の弥生美術館の時はもう、どれを見ても「きゃ〜! なにこれ! カワイー!」と、当時の女学生読者同様にキュンキュンしてしまった

カワイイもの好き

私は男性としては、平均以上にカワイイもの好きだと思う。

幼稚園の頃、弁当箱を入れるトートバッグを各家庭で手作りするのが慣例で、そこにはマーキングとしてアップリケなどを施す習慣があった。母に「どんな図案がいいの」と聞かれたわたしは、「うさこちゃん(ミッフィー)」と私は答えた。

母は「男の子だから、汽車とか飛行機がいいんじゃない?」と言ったが、私は頑として譲らず、実際二年間、ミッフィーのバッグで幼稚園に通ったのだ。

飛行機や怪獣も好きだったが、同じくらい絵本や雑貨など可愛いモノ好きだった。小学校高学年になると、そういうモノに興味を持つのが恥ずかしくなっていく。

カワイイを再発見したのは中学生の時。妹が買ってきた雑誌『りぼん』で読んだ、陸奥A子のマンガだった。

なんせそれまで持っていた少女漫画のイメージは『アタックNo1』や『魔法使いサリー』だったのだから、陸奥A子のシンプルで平面的な絵と、モダンな日常生活を描いた世界の衝撃たるや、僕がこの人生で受けたカルチャーショックの中でもトップクラスのものだった。

女子たちはこんなものを見ているのか! そして、この世界は「カワイイ」という価値観が支配しているらしい。

実際、そう感じたのはぼくだけではなかったのだろう。80年代、女性が消費動向をにぎるようになると、カワイイというキーワードはマーケティングとして最重要なものになっていく。

女子の『カワイイ』がよくわからない

中学〜高校当時、女子たちは「カワイイ」という言葉を連発していた。しかし、当時の自分や男子たちはその「カワイイ」がいまひとつ、よくわからなかった。

女子たちは「これカワイイ」「あれカワイイ」と言う。じゃあ、「これカワイイよね?」と言うと「ぜんぜん!」と全否定されてしまう。

当時、大人の男性たちはよく、「女性はカワイイしか言葉をしらんのか」と言っていたものだが、それほどまでに共通化された概念なのに、その定義がさっぱり、男性には理解できないのだ。大学時代、同じくカワイイもの好きな男子と「女子の『カワイイ』って、わからんなぁ」と語ったものだ。

そもそも、可愛いという言葉にどんな意味があるのか。第一の可愛いは、子どもや子猫など、「幼いもの、小さなもの」を見て感じる感情だろう。これは男女問わず、意味を共有できている。

同じ種の幼いモノを可愛いと思わなければ、その種はさっさと滅んでしまう。子猫や子犬を可愛いと思えるのは、人間の延長上にあるモノとして、認識しているからだろう。オオカミは子ヤギを「美味そう」と感じるが、人間はその前に「可愛い」と感じる(でも食べちゃうのだが)。

第二の「可愛い」は、特定の異性や同性に対しての感情だ。この感情は万人共通でなく、個人差がある。

たとえばドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』のガッキーと星野源は、とても可愛く描かれているが、これを気持ち悪いと感じる人もいるだろう。ガッキーと星野源のカワイサは、「幼さ」である。生き方、対人関係が幼いカップルの恋愛を描いている。

この物語が幼稚園児のカップルであれば、誰が見てもほほえましい、可愛いと感じるだろうが、30過ぎの大人がそれをやることに対し「カワイイ」と思う人と「気持ち悪い」と感じる人にわかれる。

逆にぼくはAKBなどを見ても、あまり可愛いとは思わない。星野源に自分を投影できるが、秋元康には投影できないからだ。

これはすなわち、ガッキーやAKBに対する恋愛感情である。可愛いを恋愛感情の一つとするなら、いろんなツボがあるわけだ。これも種の保存に必要な、多様性の確保から来るものだと思う。恋愛の価値観が偏ってしまえば、その種の進化は袋小路に入ってしまうからだ。

中高生男子が、あの子がカワイイ、いや、あの子のほうがカワイイ、などと言うのは、それぞれの好みがあり、それが容認されているわけで、生物というのはうまくできている。

ここまではいい。ここまではよくわかる。しかし、一番厄介なのが、女子たちが服や雑貨などを見て言う、第三の「カワイイ」だ。これが実に難しい。

男性から見て、女性の「カワイイ」は謎だらけで、AやBがカワイイなら、Cもカワイイのだろうと思ったら、全否定されたりする。ぼくの世代はそんな感じだが、今の時代の若い人たちはどうなんだろうか? 今度、男子学生に聞いてみよう。

カッコいいもわからない

そういえば、同様に「カッコいい」もよくわからない。女子が「カワイイ」か否か、しか言わないと言われていたが、同様に男子も「カッコいい」か否かしか言わない。私は男子だが、これがどうも難しいのだ。

たとえば、子ども時代。ウルトラマンや仮面ライダーなど戦うヒーローを「カッコいい」と思うのは、よくわかる。強い、速いをカッコいいと言ってるにすぎない。

ところが、もう少し成長してからがやっかいなのだ。たとえばクルマ。ランボルギーニはカッコいい。カウンタックはカッコいい。なるほど、じゃあワーゲンもカッコいいよね? といった途端、まわりにドン引きされる日々… スニーカー、戦車、銃… いまだにどれがかっこよくて、かっこ悪いのか、よくわからんモノがたくさんある。

実はカワイイがわからないことより、カッコいいがわからない方が事態は深刻だ。大学で建築を学んでいる頃は、もっとよくわからない状況。この作品はカッコいい、この作品はダサい。その基準がさっぱりわからない…

よほど、自分の感覚が人とずれているのか…

以前このコラムで「絵が上手いがわからない」話を書いた。あの時は、「仕事として上手い」「立体感の表現が上手い」「色の調和のさせかたが上手い」など、前提が抜け落ちているのだ、と指摘した。しかし、これよりもカワイイ、カッコいいの方が手強いぞ…

なにを形容しているのか

どうして、この言葉はこんなに厄介なんだろう?「可愛い」という言葉は形容詞である。形容詞というのは、そのものの特徴を表現して、対象をより具体的に言い表す機能がある。例えば、「甘い」「寒い」「白い」「高い」など。

「甘い」「寒い」といった形容詞は、赤ん坊から成長していく過程で、その意味を知る。「ほら、甘いでしょう?」などと親が語りかけることで、「これが甘いという感覚なんだ」とわかってくる。

「高い」や「白い」といった形容詞は、勉強の過程でより正確に知っていったものだ。長さや比較という概念がわかってこそ「高い」の意味がわかるし、美術で色の名前を知ってこそ「白」がわかる。

じゃあ、女子の「カワイイ」は、どう定義されているのだ? どうやればわかるのだ? それがさっぱりわからない。

かつぢの絵を見て「かわいいなぁ」と思いながらそんなことを考えていて、ふとわかった。ああ、そうか、なんだ、簡単なことじゃないか。カワイイ、カッコいいという言葉を、形容詞と考えていたことが、そもそもの間違いなのだ。

カワイイは形容詞ではない

つまり、こういうことだ。ある対象を見た時、人は「カワイ〜!」とか、「カッコイ〜!」と口に出して言う。

しかし、ケーキを食べて「アマーイ!」とは、あまり言わない。言うとすれば、それは甘すぎる、という否定的な意見の時だ。「寒い!」や「暑い!」も同様に、口に出すのは不快を表すな時だ。

ところが、カワイイとかカッコいいは、肯定的にしか使われない。真逆じゃないか。

肯定的にしか使われない形容詞を考えてみよう。「面白い」「美味しい」「上手い」「可愛い」など。これらのうち、思わず口からでてしまう、感動詞として機能するのは「美味しい!」「可愛い!」だろう。

否定的にしか使われない形容詞はどうだろう。「痛い」「ひどい」「苦しい」「悲しい」など。これらは、訴えるために言う場合が多い。「暑い〜!」とか「まぶしいっ!」など、自分が不快であることを伝えることが目的で使われる。

そして感情を伴わない尺度としての形容詞。「白い」「暑い」「貧しい」「偉い」「高い」「柔らかい」「すごい」などは、「富士山よりも高い」のように、「○○よりも」を頭に付けるとはっきりする。対象を具体的に表現するための、本来の形容詞だ。

つまり、こういうことだ。「可愛い」「格好がよい」はもともと、形容詞なのだが、「カワイイ」「カッコイイ」は感動(感嘆)詞なのだ。「おもしろーい」「おいしー」なんかも、感動詞として使われる。

感動詞は本来の意味はあまり重要でなく、思わず口をついて出る言葉だ。英語でいう「Cool!」「Beautiful!」と同じ。日本人からすれば、なんで寒くもないのにCool、なのかで引っかかってしまうが、ネイティブは単純に感動詞として使っている。

そう考えると他にも例がある。「やばい」という言葉は、「危険、具合がわるい」がもともとだが、90年代から「ヤバい」は「凄い」という意味で使われるようになった。

元の「やばい」は形容詞だが、あとの「ヤバイ」は感動詞と考えると、とてもわかりやすい。

関西で「梅田はエラい人や」と言えば、「梅田さんが偉い人」という意味ではなく、「梅田駅に人がたくさん居る」という意味になる。「エラい」は「ゴッツゥ」とか「メッチャ」と同様の「大変な、異常な」という意味。

つまり、「偉い」は形容詞だが、「エラい」は感動詞なのだ。

関西人は悩むこともなく「偉い」と「エラい」を使い分けているが、他の地域の人はみんな、ピンとこないという。

カワイイ、カッコいい……私を悩ませていたのは、これら、言葉の元の意味と、使われ方が乖離しながらも、元の意味にひっぱられてしまうことから起きる不幸だったのだ。

じゃあ、明確に違う言葉だったら、そんな悩みはなかったんじゃないだろうか。感嘆詞としての「カワイイ」が「モチヘゾ〜」だったらどうだろう? 価値観の違う者は、私のように元の意味に悩むことなく、相当救われるのではないか。「モチヘゾ〜」のノリに乗れなかったら、最初から違う感覚の人なんだなぁと思えるのではないだろうか。

なーんだ、じゃあ「カワイイ」「カッコいい」には、ほとんど意味がないじゃん……というわけにはいかないぞ、これは。

同音異義ゆえの誤解

女子たちはすぐに「カワイイ」を連発し、男子が「カワイイ」と言うと「変態」とか言われる。「カワイイ」が単純な感嘆符であれば、そんなことにはならないはずだ。「美味しい」の感覚が異なっても、そんな全否定されたりはしない。

仲間内で言う「カワイイ」「カッコいい」は、単なる感動詞として使われるのだが、その言葉がもともと形容詞であるがゆえに、私のように「何か尺度があるんじゃないか」と、悩む人が出て来る。なぜそういうことになるのかと言えば、実際に尺度として使われることがあるからだ。

例えば広告代理店で、あるビジュアルを指して「ヤバイ」と言ったとしよう。これは「感動詞」のようでいて、実はそうではない。業界内でのちゃんとした形容詞、修飾語として機能している。

「これまでにない、斬新で凄い」という意味だが、それがヤバイのかダサいのかは、過去の事例や文脈を理解していなければ判断できない。

同種のビジュアルは昔はそのジャンルではタブーだったが、今ならそれが斬新ということで受け入れられる、そういうことは経験や歴史を知らなければ、判断ができない。だから、まわりがヤバイと言っている時に否定的なことを言うと「無知」「センスがない」「不勉強」というレッテルを貼られることになる。

カワイイとコミュニティ

女子たちの「カワイイ」、男子たちの「カッコイイ」は感動詞で意味がないのに、メディアを通じて、業界の文脈で使われる形容詞を見聞きしたりするので、使う方も、わからないと思う方も、意味があるんじゃないかと誤解してしまうわけだ。

もちろん、同じ対象に同じ価値観を抱く人々がコミュニティを形成する。「戦車をかっこいい」と思う人たち、「ピンク大好き」な人たちのグループができる。このコミュニティの中では、カッコいいもカワイイも、共通言語として、明確な意味を持つ。だったら女子たちの「カワイイ」にも意味・尺度があるように思えるのだが……

あ、なるほど、そうか。大きな勘違いだ。逆なのだ。同じ意味で「カワイイ」を使うからコミュニティになったのではなく、先に「女子」「男子」というコミュニティが存在するのだ。

女子同士がカワイイで盛り上がるところに、男子が入れないのは、「あんたは入ってきちゃダメ」と言ってるのだ。「オンナにはわかんねぇよ」なんていうのも同様。

カワイイやカッコいいの解釈は実は無関係で、「あんたにカワイイがわかるわけがないでしょ」と、最初から異物扱いなわけだ。

カワイイテスト

人は当然、気の合うモノ同士で居たほうが、ストレスもなく、楽しく過ごせる。同じ価値観、同じ思想であれば、トラブルも少なくて済む。それがコミュニティを生む。同じものを同じように「カワイイ」と思えることが、重要なのだ。

そこで、同じ価値観を共有しているかどうか、コミュニティでは「カワイイテスト」が行われる。何かを見て、だれかが「カワイイ!」と叫ぶのだ。ここで違和感が募ってくれば、そのコミュニティとは感性が違う。そこを去ればいい。

自分なりに「カワイイ」を連発していれば、自ずと自分のコミュニティが見つかるから、問題はない。問題なのは次の二つのケースだろう。

ひとつめは、この理屈がわからずコミュニティに馴染めない場合。理屈がわからないと、自分の感覚がおかしいんじゃないかと悩んでしまう。

そこに、「カワイイの文脈」があると思い、自分が勉強不足である、自分が悪いと思ってしまう。実際は単に気が合うかどうかに過ぎないことを、自分に問題があるとしてしまう。

「ヤバイ」の例のように、業界によっては明確な意味があるものが、一般化した時点で意味が消失する。だから、みんな混乱してしまう。テレビでは意味が明確にあるはずなのに、自分の周りでは通用しない……

ふたつめは、自分の意思に反してそのコミュニティに属し続けなくてはならない場合だ。たとえば学校。その学校やクラスに属し続けなくてはならないので、本当のコトが言えなくなる。

この理屈がわかっている弱者は、適当に「カワイイ」と相槌を打つことに徹して、卒業を待つ。学校の本分は勉学であり、交友関係はサブだから、そこに目をつむることができる。それが出来ないモノは同調圧力に苦しみ、ひきこもってしまったり、いじめにあってしまったりする。

学校は、卒業があるからまだいい。国家や家族という、脱出しにくいコミュニティでこの事態になると、相当にツライ。政党内ではどうやら日常的にカワイイテストが行われているようだ。それが嫌なら辞めればいいのだが、それを国家全体でやるのは勘弁してほしい。国民を辞めるのはそう簡単なことではないのだから。

たくさんのカワイイ

松本かつぢは、いろんなスタイルで「かわいい」を描いてきた。ひょっとしたら彼は、絶対的な尺度のある形容詞「可愛い」を追求したのではなく、いろんな感性の感動詞である「カワイイ」に答えるために、たくさんの答えを用意してくれていたんじゃないだろうか。たくさんのカワイイがあって、それぞれが自分のカワイイを堂々と言えればいいと考えていたのではないだろうか。

ハーバード大のサンデル教授は『これからの正義の話をしよう』の中で、正義を三つに分類した。功利主義、自由至上主義、そして道徳。そして、その三つにはそれぞれ、もっともな言い分と、問題点を抱えていることを指摘し、三つの視点を持つことこそが、正義を考える上で最重要であるとした。

正義とはなにか、という答えは永遠にないが、だからこそ永遠に考え続けるということだ。ならば、これからのカワイイの話をしよう。さまざまな立場からのカワイイを知ろう。

そんなことをぼんやりと考えながら、美術館を後にした。

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