ユーレカの日々[06]不確実な過去

初出:日刊デジタルクリエイターズ 2011年11月09日
これを書いてから9年。記録というものがこれほど蔑ろにされる国になっていようとは、当時は想像もしなかったよ。

以前、勤務先の大学で、最終学位を提出しなくてはならない、ということがあった。通常は「◯◯大学卒業」といった経歴だけで済むのだが、役所に出す書類に正式な学位名称が必要なのだという。単に学士とか修士とか博士とかなのかと思っていたら、時代や分野によって名称が違うらしく、卒業証書や卒業証明書などで確認すべし、というお達し。

この時、ふと「はたして自分は本当に大学を卒業したのだろうか?」という妙な妄想にとりつかれた。

本当に卒業したのか?

ぼくは東京の美術大学に通っていたのだが、四年生の時にマンガとコンピュータにうつつを抜かしていたせいで卒業制作が構想の半分もできず、卒業あやうし! という状況に陥った。あの時の焦燥感は今思い出してもぞっとする。

なんとか卒業させてもらえることになり、卒業式にも出た記憶はあるのだが、それがはたして本当のことなのか? ひょっとして実は卒業していないのではないか? 引越し、就職のどさくさに紛れて生み出した妄想だったのではないのか? 卒業できなかった可能性は十分すぎるくらいあるのだ。

その後関西に戻り、専門が「うつつを抜かしていた」方に変わったこともあり、今では当時の同級生たちとほとんど付き合いがない。当時の写真が多少はどこかにあるはずだが、どこにしまい込んだのか、すぐには出てこない。時間がたつにつれ、大学に通っていたこと、東京に住んでいたことすら、あやふやになっていく。

卒業校に問い合わせれば証明書を発行してくれるはずだが、もし、「あー、そういう人の在籍記録はないですねぇ」なんて言われた日には自分の人生が足元からガラガラと音をたてて崩れることになるので、とてもそんなことをする勇気はない。

そんな恐怖に怯えながら家探しした結果、奇跡的に卒業証書が出てきて、ことなきを得た。しかし、その卒業証書だってたかが紙片一枚である。こんなモノくらいしか、自分の過去を証明するものがないのだ。その紙片だって、本物だと思い込んでいるだけなのかもしれない。

もしこれが妄想だと言うのであれば、あなたは一週間前、夕食に何を食べたのか証明できるだろうか?

誕生日などのメモリアルデーなら記憶にあるかもしれない。しかし本人だけの記憶では証明にならない。食べ残しももう処分されている。日記に記録していても、それが事実である証明にはならない。食べたのは餃子ではなく焼売だったのかもしれない。外食であれば領収書があるかもしれないが、それを自分が食べたことの証拠にはならない。

写真を撮っていたとしても日付データなんて簡単に改ざんできる。一緒に食事した人の証言があったとしても、その証言が正しいと証明するのは難しい。本当は別の人と食事をしたのかもしれないし、いっしょに食事をしたのは10人ではなく、11人だったのかもしれない。

記録は信用できるのか?

たった一週間前の、自分がした事も、証明することは難しいのだ。ましてや人の過去が事実かどうかなんて、わかるはずもない。

たとえば、仕事上でも、それをだれがいつ、何のために始めたのかわからない、というとんでもないことが結構ある。はじめた当時の担当者がもういないため、経緯や真意がわからないようなことを何十年も続けている、なんてことがある。

デジクリの読者であれば、別の会社が作ったサイトやコンテンツを引き継いだとき、担当者に事情を聞いてもさっぱりラチがあかない、という経験があるのではなかろうか。

また、過去の経歴を信頼して外注に仕事を出して、痛い目にあったことは社会人であれば二度や三度はあるはず。自分がいいように解釈していた他人の経歴が、実はその業界ではたいした経歴ではない、なんてこともよくあることだ。

歴史的な出来事も同様だ。ある国が事実だと言う事件に対し、ある国はでっち上げだと言う。歴史は勝者が作る。時間が経てば経つほど、事実はわからなくなる。悪意はなくても、過去というのは解釈次第でまったく正反対の意味を持つことがある。

レプリカントが写真を集める理由

だから人間は記録を欲しがる。記録したがる。映画「ブレード・ランナー」には、人造人間レプリカントは写真を欲しがる、集めたがる、という描写が出てくる。偽の記憶を植えつけられた人造人間は自分の存在が常に不安であり、写真という記録に頼ることでしかアイデンティティを保てないのだ。

しかし、これは人造人間だけの話でなく、人間もそうだ。だから太古の昔から人間は記録する工夫をし続けてきた。絵しかり、文字しかり、写真しかり、クラウドしかり。しかし、記録は所詮、記号化されたものに過ぎない。事実の近似値にすぎず、絶対的に証明はしてくれない。だからこそ、人は少しでも多く正確に記録しようとする。

芥川龍之介の小説「藪の中」は、ある殺人事件の関係者全員の証言が食い違い、結局は事実がわからない、という話だ。この話を読んだのは中学か高校の時だが、その時は単純に「だれかがウソをついている」と解釈した。だれかが誰かを殺した、という事実は、ひとつしかないはずだから。

真実はいつも…

しかし、歳をとってくると、どうも世の中はそれほど単純にはできていないような気がしてくる。というか、事実は一つ、と考えない方がいいんじゃないか、と思うようになってきた。

未来に無限の可能性があるように、過去にも無限の可能性がある。

過去を探ることは自分の立ち位置を確認し、未来を選ぶときに重要な手がかりになる。だから歴史や人物伝を知ることはとても楽しいし役に立つ。

しかし、過去の可能性は無限にあるのだ。レプリカント同様、その過去が事実かどうかはっきりしないと気持ち悪い感じがして、つい正解を追い求めようとしてしまう。でも正解かどうかということは実はたいして重要ではない。結果ではなく、記憶や歴史を探る過程で様々な可能性を知ることの方が重要なのだ。

できるだけたくさんの証言、解釈にあたり、事実はひとつだと思わないこと。なぜならひとつの真実よりも100の可能性を知る方が、未来を予測するのに役に立つはずだから。それが健全な過去への接し方なのだ。

執筆時は、ダンカン・ジョーンズ監督「ミッション:8ミニッツ」という映画を見て考えたこと、という冒頭部分がありましたが、再掲にあたり、今回その部分はカットしました。

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