311によせて

東日本大震災から今年で10年、恐ろしく時間が早く過ぎてしまった。

たまに人には話すけれど、ネットではあげられなかった3.11のボランティアで人生が変わった話を書く。記憶から書いているからもしかしたら嘘もあるかもしれないけれど、概ねその通りに書いているつもりである。

東日本大震災の時は中学生だった。こんなにも悲惨な地震を経験したのは初めてで、当時住んでいた神奈川県は震度5強だったけれど、あの時は学校で経験し家に帰った瞬間に「死」が近くにあったと実感して震えた。

あの日のあの時間はちょうど社会科の歴史の時間だった。たまたまヒトラーの紹介ビデオを観る日で、ドイツ陸軍が敵を目掛けて大砲を撃った瞬間に、とんでもない大きな地震が来た。大砲が現実世界に来たのかと思うような大きさだった。あの時は命を優先せず、信号が切れるところを眺めていたかった。生きる意味がわからなかったから、生きているより見たいものが見たかった。

暴走する車と地震で灯りがまるで線香花火のようなチカチカ危うい光は、中学時代の自分にとっては幻想的で美しさを感じた。クラスメイトから「○○!命を大切にしろ!この地震はやばい!机の下に避難しろ!」と言われても、大地震の最中お構いなく廊下に出て信号機を眺めていた。その場面は今でも頭の中をよぎり「よく生きていられたな」と思わせる。

その当時も私はTwitterが大好きで、3.11の後もガラケーやiPod touchからTwitterを開いていた。そのときに #edano_nero や、震災時の悪い噂(ガソリンスタンドが爆発して石油の雨が降るなど)の情報が絶えなかった。

情報は、パソコンは、ネットは、自然災害には弱いのだろうか。誰かを救うことはできないのだろうか。今ではそう思うことがある。

私はそれから工業高校の情報工学科へ進学。2年生の時にたまたま新聞を見た母が「高校生の復興ボランティアを県が募集しているから、申し込んだら?貴重な経験になると思うよ」と言ってきた。

母「多分ボランティアで他人を助けられるのは一瞬だけど、そこで得た経験はずっとあなたを助けてくれるはずだよ。行ってきたら。」
私「はえー、そんなもんかー」
母「そう、貴重な経験ができると思うよ。それも、多分自分がボランティアをしたことが、それ以上の何かを生んで戻ってくるくらいには、いい経験が。」

何も考えてなかったが、母がそういうなら行こうかと決意した。2度も母から似たようなことを言われたし。適当に書類を送って、何故か通った。

ボランティアへ

震災復興ボランティアは結構倍率があったらしいけれど、なんとか行く機会をもぎ取った。気持ちは旅行気分で、「税金で岩手県に無料で行ける」というものでしかなかった。お盆休みの頃で、新花巻駅には花巻東高校がんばれの文字がある。新花巻駅へ来ていた送迎バスでは甲子園の音が響いていた。感慨深さと、どこか本当に震災のやばかった土地なのか?と非現実的な気持ちになる。

私の眺めている岩手県…ここは緑が豊かで美しくて、2年半前に震災が起きたとは思えない。遠くには山が見える。近場を見ようとすれば野草、野草、野草。木々が風に靡いてはらはらと動く。本当にのどかで美しい。風の過ぎ去る姿を眺め、バスに備えられているクーラーで夏の暑さを忘れて窓の外を眺め続けている。空の青さは鮮やかで、自然の豊かさを象徴しているかのようであった。

窓の外の緑に標識が現れ、「釜石」という文字が見える。釜石、初めて来た土地。少しだけ家がぽつぽつと見える地域にやってきたみたいで、予想より少し栄えている町を確認する。私の釜石のイメージは、北海道の中でも特にド田舎だった母方のじいさんの家のイメージだったのだけど、あんなにド田舎ではないらしい。こうした脳内イメージってあてにならない。実際に見ないと、そこに何があるかなんて何も掴むことができない。

釜石に来たという実感がわく標識と看板を眺めていると、どれも本当においしそうな広告ばかりで食欲がわく。特に一瞬見えた海宝漬けの写真の載る広告は少しおなかが減ってしまう見た目をしている。海宝漬はアワビと卵のついた昆布、いくらとたまにウニのようなものが入ったご馳走を漬けている贅沢な食べ物だよな…と写真を見てお土産で買う決意を新たにした。そう考えていると釜石駅前をバスが通っていく。駅前には何か白くてきれいな鐘のような像が見えた。美しさとどことなく新しさを感じた。

そうだ、私は初東北が岩手県の釜石市で復興ボランティア。母からは「それって誇らしいんじゃない?」なんて言われたけど、特にその地点では感慨深いものはない。景色を見ていてもまだ何も実感がわいていないけれど、岩手県は特に津波の被害が甚大だったと聞く。釜石に来る前に調べたけれど、釜石市は津波てんでんこというものがあったらしくて、「釜石の奇跡」と「釜石の悲劇」が存在している。釜石は奇跡と悲劇を一緒に背負った町だということを見た。

「そろそろ、津波の被害の受けていた地域に差し掛かります。」というバスガイドさんの声が聞こえてきた。窓の外には一面の草原。特に先ほどと代り映えがないようにも感じられる。
先ほどは少し山の中であったけれど、今は海が近いし高台ではない。草が生い茂り、たまに〇と×の落書きのようなものが書かれている建物が、草原の中央にそびえたつ。このバランスはなんだか異様な感じもするけど、これに意味があるのだろうか。これは、いったい何が。なんだか少しだけ違和感がある。
だって、道のなさそうな草原の中にわざわざ家を建てるだろうか…?そして、建物に落書きのようにも見える〇と×を書く必要もあるのだろうか。

奇妙な違和感と、それを言語化する術のない状態が続いてからバスガイドさんが話す。

「皆さん、窓の外をご注目ください。ここはかつて住宅街だったところです。津波で流されてしまいましたので、今は一面の草原です。津波で流された思い出のかけらは海の近くに山になっています。たまに見える〇と×の印は〇は生存者のいたところ、×は…遺体が発見された印です。」

ハッとした。そして、かつてこの草原のところには家が建っていて、そこでみんなが暮らしていたのかと思う。ここは…この草原は喜ばしくない草原で、そして〇と×は、誰かが苦しんだ跡で、軽々しく私がなんだろうと思っていたのが本当に恥ずかしくなる。下調べをしていたつもりだったけど、建物に〇と×が書かれているという事実を知らなかったし、その意味も分からずに、まるで野次馬かのごとくなんだなんだと思っていた自分は愚かでしかないだろう。なんだか上手くいかないなと悲しい気持ちになった。

(その当時の苦い記憶としては)私の学年の同期たちは工業高校の中でもとても優秀な代と言われていて、自分はその中で下から2番目だった。そう、自分の能力のなさに嫌気がさしていた。だからこそせめて、情報工学を学んできた身であるから、情報工学で困っている人を助けられるようになりたいと思っていた。しかし、技術すら知らないくせに、誰かを助けることなんてできるはずもないと悩んでいた頃である。どんどんと自分の役に立たない人間であることに対しての苦しさでいっぱいになっていった。

私がどうあるべきか。

一日目は宿についてから、実際に被災された方と交流する機会と、後は明日から三日間のボランティア活動の予定を配られ、実際に何をするかの計画を共有される。窓の外は…がれきの山とぽつぽつと海辺に高い建物が建ち始めているようなぽつぽつとした震災の爪痕は強烈だった。

「こういう高い建物は宿です。震災復興のためにまずは人に来てもらうために、宿を運営されている方々が宿を建て直してくれました。泊まる場所があるからか人がぽつぽつとくるようになったんですよ。そうそう、外を見てください。なぜ建物の下に10mくらい盛られた部分があるかご存じですか?これはですね、津波が10m超のものがきたから、もし次…があると困るんですが、次に同じことがあったときに、建物が流されないようにという配慮から高くしているんですね。」

青い海と高い建物、コントラストとしては滅茶苦茶合わないがれきの山と水上に存在するクレーン車のようなもの。初めて実感らしい実感をした。先ほどの草原でもすごく驚いたけど、クレーン車とがれきがどうしても、生々しい傷跡にしか見えなくて、震災当日に思いをはせるととても苦しい気持ちだったのではないかということを感じ取れてしまい、今こうして眺めている私も悲しくて苦しい。水上のクレーン車がなんだかよくわからないけれど、このクレーン車が色んなものを引っ張り出しているのではないかと思う。まだ、まともに復興などできていないのだろう。震災からもうすでに2年も経っているけど、ここは当時のまま時だけが経ってしまったかのようであった。

ボランティアの時に、被害にあわれた方と話す時間があると聞いた。そのときに私のエンジニア人生が決まったと言っても過言ではない。

その震災の被害にあった方々の時の話もまた衝撃的で、集まってくれた釜石市の人たちは「たまたま被災しただけなのに、被災者と言われたくない」「思い出の詰まった家たちが瓦礫と言われることの屈辱」「復興ではなく再興したい」ということを話してくれた。
(瓦礫と思っていた自分をその時に恥いた)

その場面で、あるご老人に質問ができる時間があった。手をあげてどうぞと言われたとき、みんなの前で勇気を出して手を挙げた。学校では(※事実だけど)アホだと見られがちだったので、正直に手を挙げることが怖かったが、聞きたいことを聞けなかった時の後悔をしたくなくて頑張ったのだ。

拙い言葉を並べながらこう話していた。

私は、エンジニアの卵です。多分、多分社会人になったら情報…パソコンの技術でお仕事をします。私も震災の被害にあった人達に対して助けたいと思っています。だけど、私は建設工学とかではないから直接助けられません。でも、エンジニアとして被災した人たちを助ける方法が知りたいです。何かできませんか。

今でも震えていた時の記憶がすごく強烈に残っている。緊張したし、これは私のその当時に本気で抱えている悩みの本音だったからだ。質問のマイクを持ちながら、既にありきたりな言葉しか出てこない自分が嫌になっていた。

おじいさんは私の意図を汲んでくれた。そして、初めにこう伝えてくれた。

「もしかしたら話が逸れるかもしれないけど、エンジニアの人はさ、難しい言葉を使って、それを使えばいいということを伝えてくるけど、僕たちはその説明を受けても何もわからなかった。エンジニアであるなら、被災者に歩み寄ってほしい。」

この一言だけで、キュッと心を掴んだ。自分も技術を学んでいる時「わからない」と悩んでいるからこそ、さらに学んでいない人たちはもっとわからないんだと気付かされたのである。

「僕は震災の後にたくさん来る建築系のエンジニアの方から『弊社のこの技術を使えば○○が△△でこうであるから直ります』みたいなことをずっと言われてきた。だけど、彼らはこちらに対してこちらのわからない言葉を投げてきては、理解して当然であるというような態度だったり、理解していないこちらに対して失礼であるみたいな態度をとってきたりしたものだよ。上から目線で技術を説明してきた。僕たちはせめて復興を早く行いたいと思った。だけど、わからないがゆえに選べない技術を選べと毎日毎日来る人たちからいわれ続けても、そこには考える余地がなかった。利用者はわからないものは選べないんだよ。これは復興の遅れの遠因じゃないかと僕は思う。」

技術者が助けたいと思うのに、専門用語で逆に足を引っ張った話は衝撃的だった。高校生の私には言葉にできない悔しさがあった。自分はそういう人たちを救えるエンジニアになりたいと決意した瞬間でもある。

「これは僕の主観だけど、技術なんて正直一般人にとっては優れていたとしても、すごいとかすごくないなんて少なくとも僕には差がわからない。だけどね、その技術の凄さを理解させられる人っていうのが一番大切だと思う。凄さがわかりやすければ、使おうって思うじゃないか。iPhoneがそうでしょう?iPhoneって確かに最先端ですごいものだって思うんだよ。それはそう思わせるわかりやすさがあったからじゃないかな。だから、僕たちみたいな技術のわからない人はiPhoneを選ぶんだよ。もしかしたら他の会社の出している携帯電話の方が、技術的にはとても素晴らしいのかもしれないけど、でも僕には他の携帯電話を選ぶだけのその凄さがわからない。その凄さがわからないものに対してお金を出すことができない。「お金」は有限だからね。確かに最先端で優れた技術は素晴らしいと思うけど、それは使い道がわからない人には無用な長物だ。そして、こうして凄さを理解させるということは技術じゃなくて、人間性なのかもしれない。エンジニアの人にね、対等で見てほしいんだよ。僕たちと対等な目で対等な言葉を使ってほしい。対等な技術の使い方をしてほしい。 わからない のは買う立場の責任なのだろうか。使う人の考えとか、使う人のやり方とか、そういう相手の背景とかまでは難しいと思うけど、せめてわかりにくい言葉を専門用語じゃなくすとか、わかりやすくね……」

このために、この言葉を聞くために私はここにきたのではないかと思えた衝撃だった。一字一句忘れられない。私がエンジニアとして生きていく時の軸になっている。

「私は人を助けられるエンジニアになりたいと思ったけど、同じ目線でわかりやすくがみんなの求めるエンジニアなのか」と考え、その後滅茶苦茶大学で主専攻の傍、古典や経営や経済についてなどを勉強して今に至る。

私はあれから学生時代を経て社会に出た。あのおじいさんに言った通りのエンジニアになった。仕事をしている時、東日本大震災の復興ボランティアで出会ったおじいさんの言葉が頭をチラつく。

「彼のような困っている人を救えるようなエンジニアになれているか?」
「彼のような人でもわかるような伝え方はできているか?」
「彼の言っていたようなエンジニアにはなっていないか」

恐らく私のエンジニア人生が終わるまであの言葉は噛み締め続けられるだろう。人生を変えたきっかけの言葉の一つだと思う。

余談

ボランティア最終日の釜石の悲劇の話を書く。その日も暑かった。バスは駅に向かうと言いつつも、海沿いを走っていく。目の前に白くて、〇に×の印、…生存者も死者もいた建物であるところに来たようだ。この建物、何か見覚えがある。釜石に来る前に、ちょうど一週間前に下調べしたときに何かで写真を見たような記憶がある。白い建物を眺めていると、鵜住居地区防災センターと書いてある。5秒後にその存在を思い出す。

「釜石の悲劇…」

大震災ですさまじい地震があったので、津波が押し寄せてくるのは体感的に釜石の皆がわかっていた。だからこそ、近所の住人はいつも避難訓練を行うときに使っていた、鵜住居地区防災センターに避難してきたようだった。この建物は高台に存在していない。ここに押し寄せた人は、ほとんどの人が海水に飲み込まれて、それで………見ているだけでゾゾゾっとする空気が当たりを包み込む。風が吹いているわけでもないのに、冬でもないのに空気がやたらと寒いのだ。今は夏真っ盛りなのに体感は冬の北海道にいた時の凍てつく寒さである。

バスガイドのおじさんから「中に入りましょう」といわれる。一歩一歩中に踏み込む。事前知識があったから、ということなのだろうか。すごく空気が重い。もしかしたらここだけ重力が地球の5倍なのかもしれない。霊感はないけど、ここで確かについ最近命が消えたということがこの空気の重さから感じ取れる。何もない空間であるからこそ、暗く重く、そして怖く感じる。

二階。ここで200人の方が亡くなった。ここに踏み込んだ瞬間、「俺はもう少し生きたかったのに、生きることができなかった。」というような、魂の苦しみというものが一瞬体の中に入り込んできたかと思えば、勝手に手が震え始める。

それは「誰かわからない…誰かの命の葛藤が刻まれていくようだ」という言葉が私の心を包み込む。こう表現するのはおそらく的確ではないが、今の私の語彙力であるとこれが限界である。空気も身体も何もかもがズシンと重い。
何もなくて白いだけの天井を見ているのに、何故かムンクの叫びのようなおどろおどろしさを感じたり、確かこの建物に入る前はセミの声が聞こえていたはずなのにここにいると全てが無音のように感じたりしている。極め付けは天井は色が白いのに何故か黒いのだ。

意味はないかもしれないけれど、心の中で祈りを捧げた。私は2年半後に何もない状態できているだけなのに、当時のここはすごく恐ろしかったことを感じることができるひどい空気であった。周りの人たちは泣き出すくらい建物から命の叫びが聞こえてきて怖い。隣にいた帽子で決めている子も何かを感じるようで、「どうしてかわからないが、何かを触れたかのような異常さを感じる」と言っている。話を聞いていないので予想でしかないけど、当事者はさらに本当に津波が怖かっただろう。思い出して欲しくないだろうかもしれないけど、この記憶を思い出して祈り続けようと思わせてきた。
それで、私は今も3.11の日のあの時間には黙祷をする。彼らの鎮魂を祈るために。

一階に降りれば「そろそろ鵜住居防災センターは取り壊されるのです。」と管理しているお爺さんにいわれた。バスガイドさんから「住民の方が当時を思い出すから」ということを言われて、当時を知らない私たちですら、当時の悲惨さを感じ取ることができる存在だからそれに対しては言葉にできない。これおそらく当時もここにいた人たちはこれ以上のものを感じ取っているのだと思うと何とも言えない気持ちになった。

取り壊しで前に向けたらいいけれど、取り壊しで悲惨さを知る人が減ることはいいことなのかもわからない。

その後、鵜住居駅が近くにあるということで、ガイドさんの案内で鵜住居駅を歩いて見に行いった。駅の周りは草原であったので、線路はやばいんだろうなと思っていたら、それよりも悲惨であった。駅はなんと水没している。汚い緑色の水が濁って、鵜住居駅が沈没している。2年半の時が経ってもなお、こんなに晴れていたとしても、なお水がはけていないのである。これがあまりにも恐ろしくて、足が震えて「人間は自然に勝てない」という実感が湧く。

てんでんこ、「もしもの時は自分の身は自分で守れ!肉親も構うな!各自で一目散で高台に逃げろ!」という教えは、自然に勝てないという自覚を持った昔の人の、何がなんでも生きてくれという願いを感じた。

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