一緒に食べよう
友達が、金沢にあるという美味しいカレー屋さんについて書いていた。お取り寄せができるようになって早速届いたものを口にするも、どうも味が違うらしい。「そうか、スプーンがいけないのだ」と気づき、お店で出されていたような木製のお皿とスプーンに変えたところ「いつもの味」と感じられるようになったのだそうだ。食器の違いがそんなに影響するものなのだなあとと感心し、もう少し普段から意識してみようと考えた。
食器といえば。今日はぼうっと過ごしているうちにお昼の時間をとうに過ぎてしまい、スーパーのお弁当を買ってしまった。持ち帰ってみると、野菜も乏しく、茶色いばかりで実に味気ない。それで、先日手に入れたばかりの作家さんの器に装りなおした。茹でたブロッコリーを添えて。するとどうだろう。急にお洒落なランチ定食のようにみえてくるではないか。レンジで温める、から一手間を加えただけで、気分ががらりと変わる。こんな風に、ちょっとした一工夫で体験が全く異なるものになるものごとは、他にもたくさんあることだろう。「みつけてみよう」。それが今日、こころにメモした言葉だ。
最近よく、食べることについて書いている。ここにきて思うのだけれど、「食べる」という体験は、人の幸福にとってとても重要な意味を持つ。いつ、どこで、誰と、どんなものを食べるか。そこにはどんな時間が流れているのか。
友達と、とある作業のために籠もって合宿生活を送った日々。何より贅沢だったのは食をともにした時間だった。「この器でいいかな?」「スプーンはこれを使ってね」などと言うテーブルの上のやりとり。湯気がたって部屋の中がおいしい香りと蒸気に包まれてほかほかになっていくさま。足を崩して小さな机を囲んで食べる、そのはじまりの「いただきます」と手を合わせる短い沈黙の時間。「一緒に食べる」ことの持つ豊かさを、思わずには言われない。このような「あたたかなごはん」の時間を、誰もが何の心配もせずに日常に持つことができたならば、どんなにか世界は穏やかな場所になることだろうかと。
食べること。食をともにすること。そのことはきっと、とても重要な意味を持つ。いのちとつながるために。人間性に触れてゆくために。
* * * * *
ここのところ考えているのは、言葉とともに「生きること − そこに漂うときの流れ」に寄り添うことのために捧げる時間を増やしてゆきたいということだ。
人間とは不思議ないきもので、何十年も生きていても、自分については知らないことがまだまだある。自分と出逢いきれないうちにいのちの時間を終えてしまうことも、きっとたくさんあるのだろう。その旅にはゴールはなく、たくさんの秘密を抱えたまま、人は生まれて、いのちを閉じてゆくのだ。
自分をみつけること−自分自身に触れる感覚−というのが、人の喜びの深いところにある。そして、そこに辿り着くために、私たちは数えきれないほどの「うちなる対話」を繰り返している。
今日こんなにも眠たいのはきっと、その対話が少し拗れて、くたびれてしまったせいだ。
こころの中にはいろんな私がいる。今日は、「いじめっこ」の私に意識を向けて寄り添ってみた。いじめっこはいつも、批判ばかりしてくる。そのいじめっこに、一生懸命向き合おうとするもうひとりの私もいる。「わかったから少し休ませて・・・」。といってみたり。「いいねえ、その調子でもっと声を聞かせて」と返してみたり。「ねえ、そんなにガミガミ言われると、とてもくたびれてしまうんだ・・・」。この睡魔は、きっとそんな声が象徴されたものなのだろう。
このぐったりした、焦るようなやるせないような気持ちもまた、大切な贈り物のありかを伝えてくれるメッセージなのだ。そして、それはとても確かなことだ。
その贈り物の味わい方にもう少しおおらかさをもたらすことができるとしたら、一体何ができるだろうか。
湯船に浸り、目を閉じて、祈るようにして答えを待つ。
あたたかさに包まれた空間。こころが防御服を一枚、また一枚と手放すように、私たちも、また。