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【大暑】桐始結花 (きりはじめてはなをむすぶ)

桐の花......4月の終わりに上賀茂神社で見かけたよなあ...と思いながら、京都を恋しく思う夏。恋しいも何も、少し前まで祇園のお祭りの最中のまちで過ごしていたというのに、それでもなお京都が恋しい。

京都のまちに暮らすつながりのある人たちのことを思う。2月の終わり頃、私は例の如く(直感)に導かれ、京都に行こうと決めた。大好きで憧れるまち。その直感を信じたくなるのも無理も無い。そして今。京都に向かう理由は、そこに暮らす人たちの存在があるからだ。必ずしも毎回会うわけではないけれど、「ご近所さん」がたくさんいるような安心感を与えてくれる人たちの存在がそこにはある。

まもなく8月が訪れる。大文字の送り火のとき。死をより一層近くに感じる時間。六道の辺りを歩くのもまた、趣があってとてもよい。

とはいいつつ、この感染病の広がる社会に身をおきながら、死というものをどれだけ近くに感じているのかというと、甚だ怪しいものがある。「自分は例外であってほしい(そうであるはず)」として眺める、ニュースの伝える感染者の数字。それについても、さまざまな見解があるわけで。

ここまで書いて、ふと思い出したことがある。「非日常的」な数字と向き合う日常のこと。

かつて、「放射線量測定値」が日々のニュースで伝えられた時期があった。福島第一原子力発電所事故の後のことだ。直後は広域のニュースでそれが伝えられていたと思う。TVを所有することをやめて久しい私も、この時ばかりはインターネットのニュースをみて、その数値を日々確認していた。風向きもとても気にかけていたものだ。雨が降るときには、気をつけなくてはいけないねと話した。明治神宮で開催された「アースデイいのちの森」で出会ったひととそんな会話を交わしたことが、なぜだかとても印象的に記憶に残っている。

しばらくして「世間」がすっかりそれを忘れた頃。あれはいわき市を訪れた時だったと思う。いや「広域避難者」を支える人たちの活動を取材しに彼らの事務所を訪れた時かもしれない(全国にいくつか、そういう場所が今でもある)。福島の新聞・ニュースで「放射線量測定値」が日々紹介されているのを目にして、とてもびっくりした。全国ニュースでは気づくことのできなかった日常が、そこにはまだ続いていたのだ。

「日常に慣れる」と、私たちは言う。しかし、その日常が「これまで長く続いてきた日常」からずれつつある今、私たちはどこに恒常性を見出そうとしているのだろうか。そして、この「日常の感覚」を共有するにあたり、メディアの発する情報がいかに多くの影響を私たちに与えていることだろう。

開催そのものの妥当性が大きく問われた東京五輪。始まってみるとすぐさま日本選手の活躍ぶりが連日のように速報として届けられるようになり、それが新たな「日常」となった。

もし今感じている違和感があるならば、それを言葉に記しておかなければ、あっという間に「日常:ルーティン」の波に飲み込まれてしまうのかもしれない。そんなことを、日々感じ取っている。

そういえば、2021年のアース・オーバーシュートデー(人類による資源消費が地球が持つ1年分の資源の再生産量とCO2吸収量を超えた日)って7月29日なのです。世界がコロナの脅威への恐れと戸惑いをよりリアルに共有していた昨年、2020年には8月22日だったそれが、あっという間に、一月近く前倒しされてしまった。これは望むべく「日常への回帰」なのでしょうか。

そんなことまったく考えていなかったのに、書き出してみたらやたらと(社会)に意識を向けた文章になってしまった。

一人で過ごす部屋をエアコンで冷やすことが嫌いで訪れているスターバックスの片隅で、ビーチサンダルが日常の鎌倉の空気に包まれながら。