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金沢のおすすめ建築 〜異人館・ウィン館〜
北陸学院ウィン館は、兼六園から歩いて10分ほどのところにあります。
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北陸学院の敷地内にありますが、入口の門構は異人館へつながっているとは思えない純和風です。
兼六園は金沢城のお庭、ということはこの場所はお城に近いということです。
江戸時代にはお城を守るため、加賀藩の重臣の家が並んでいました。この門も、その名残です。
左を見ると、立派な土塀が続いています。
前を流れる辰巳用水は、江戸時代につくられたもので、今でも兼六園の曲水は、この用水の水です。
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土塀は、加賀藩の年寄(家老)の奥村家の塀でした。
屋敷跡地は、明治4年(1871年)に陸軍省の所管となり、戦後すぐに国立病院(現金沢医療センター)となりましたが、運良く土塀は残されています。
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異人館とは
異人館は、主に明治時代に欧米人が、住居として建てた洋館です。
幕末の日米和親条約で開かれた港、長崎、神戸の異人館は有名です。
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あれ、横浜や函館は?と思いましたか。
横浜は大正12年(1923年)関東大震災で、函館は明治40年(1907年)の大火で、広範囲で建物が被災してしまい、異人館はほとんど残っていません。
日米和親条約では、もう一つ、新潟を開港するとされていました。
新潟に異人館のイメージはなく、不思議だなぁと見てみると、戊辰戦争の影響で10年延期され、開港したものの水深が浅く外国船が入港できず、港の改修、治水が続いたとあります。
金沢は、外国に開かれた港町ではありません。
欧米人も多くはいませんでしたが、お雇い外国人の住居として金沢にも異人館はありました。
金沢に唯一残る明治時代の異人館ウィン館
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アメリカ人宣教師トマス・ウィンが、明治21年(1888年)に住居地域として自ら設計しました。
控えめながら、装飾も柱はギリシアのイオニア式を彷彿とさせる形、透彫もダイヤ型でかわいらしい雰囲気です。
家の周りに、ベランダを巡らせ、列柱で支えた開放的なつくりはコロニアル様式といわれます。
欧米列強がアジアへ進出し、蒸し暑い気候を過ごしやすくするために、考案された様式です。
窓は、上下開閉式で明治の香りがします。
明治時代の西洋建築によく見られる窓です。
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中に入ると、右手に階段があります。
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手すりのデザインが、どことなく橋の擬宝珠のようだと思うと、設計はウィン氏がしたけれど、実際には日本の大工さんが建てたとのことで納得です。
このペンキの色は、もともと茶色でした。塗り直して、今の色になっています。
明治の学校建築、金沢くらしの博物館ももともと茶系のペンキでした。
こちらも後で塗り直したというのですが、今の色も似ています。
ペンキの色にも、価格や流通具合から流行があったのかもしれないなぁと思いつつ、2階へ上ります。
珍しい2人向かいあって座ることのできる机がありました。ひとつの大きな机で、2人が執務することができるようになっています。
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右には、爽やかな緑の光が入る休まる空間です。
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ベランダに出てみましょう。
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ここはもとは窓がなく、北陸学院の幼稚園として使われるようになった際に、危険防止で窓がつけられました。
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ベランダの柱の装飾も、窓のために削られています。
さらに、このときに間仕切りを取り払うなど他にも改築がされました。
この反対方向から見ると、端は強度の強そうな作りです。
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先に見えていた奥は、まっすぐストンと切れています。
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この辺りも、改築された可能性を感じました。
もう一度中に入ると、家具が個性的です。
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先に見た机とお揃いのデザインの取っ手の箪笥です。
聞くと、父が家具職人だった学校の創立者メリー・へっセルが設計し、地元の職人に机と合わせて作ってもらった家具でした。
奥には、シンガーミシンも。アメリカで初めて個人用ミシンとして販売されて、一世を風靡したミシンです。
日本では、明治になって洋裁が必要となり、ミシンが普及していきますが、その頃のミシンはほとんどがシンガーミシンでした。
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北陸学院は、女子教育の必要を感じて明治18年(1885年)に創立された金沢女学校から始まっています。
女性が自立して生きていけるようにと、英語のほか、西洋料理や裁縫といった実務科目も教えられていました。
1階には、北陸学院についての展示がされています。
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金沢女学校は、最初は金沢市役所第二庁舎のある場所にありました。
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旧校舎の校章含む紋章は、展示室に飾られています。
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ウィン館のウィン牧師は、もとより学校設立のために自邸の周りの土地を少しずつ集めていました。
そこに最初に愛真学校という男子校を明治16年に作っています。
でも、明治半ばに教育勅語が出てから、キリスト教への風当たりは強くなってきて、いよいよ明治32年(1899年)政府の訓令により、宗教教育が禁止されました。
学校は、キリスト教育を貫いて、高等学校への入学資格、徴兵猶予の特典のない各種学校として生き残るか、廃校とするかという選択を迫られます。
男子校で特典がないというのは致命的であり、愛真学校は、そのため廃校となっています。
でも、女子教育のための学校はほとんどなかったこと、徴兵はもとより縁がなかったことから、金沢女学校は、キリスト教育をする各種学校として、北陸女学校と名前を変えて継続の道を選びました。
明治が終わってからも、世界大戦で敵国の宗教として弾圧されるという難時にも耐えて、北陸学院はこれまで残ってきたというドラマチックな歴史が見えてきて、驚きです。
明治19年(1886年)に創立された私立英和幼稚園(現北陸学院第一幼稚園)は、現存する全国で最も古いキリスト教系幼稚園となっています。
ウィン館と併設の建物は、その幼稚園の建物として使われていたものですが、こちらもステキな建物です。
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金沢とキリスト教、意外ですが、密接な関係がありました。
キリシタン大名の高山右近も加賀藩祖の前田利家に招かれ、1614年のバテレン追放令まで加賀過ごしていたこともあり、素地があったのかもしれません。
また別の機会に、高山右近も追ってみましょう。
参考
「金沢市史 資料編17」
「北陸学院歴史ものがたり」
北陸学院ホームページ
ウィン館展示資料
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