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金沢城の石垣になるまでに 〜石の道をたどる〜

石引商店街あたりをいろいろ歩いて、「石引」自体が気になってきました。
今回は、金沢城へ石を引いた形跡を求めてみます。
商店街が気になる方は、こちらをどうぞ。


金沢城には、戸室石という石がふんだんに使われています。


戸室山、キゴ山から切り出されて、金沢城まで運ばれました。
その石を引いた道のまわりだったので、このあたりは石引町と名づけられています。
交差点には、下馬地蔵尊があります。

ここは、江戸初期に天徳院という前田家ゆかりのお寺へ参拝する際の下馬となります。下馬とは、馬を降りるところです。
当時、腰掛けも作られたということですが、名残なのか今でも地蔵尊の隣にはベンチがあります。

でも、下馬として始まった訳ではなく、地蔵尊はもともと金沢城建設の工事の無事を祈ってつくられたものです。
考えようによっては、ここが「石引」の起点です。

金沢大学病院前の石引広見の水辺には、戸室石が使われています。


キゴ山には、切り出した石が残っているということで、どんなところか行ってみました。

「キゴ山の戸室石」というパンフレットの地図を見ても場所がよく分かりません。
近くのキゴ山ふれあい研修センターでまず確認します。センターの駐車場からは、山から遠くに市街が見えて景色よしです。


別の地図と照らし合わせて、わんぱく広場の奥の散策コースなのではと教えてもらいました。
広場へ行くと、石の変わったオブジェのある面白い空間です。


散策コースを進みます。

分かれ道が何箇所かあり、間違えてしまったのか植樹をされたと思われる開けた空間にでました。

でも、戻ってめげずに歩きます。
いよいよ道沿いに石が無造作にゴロゴロと転がっているところが出てきました。


歩くだけでも山道でけっこう大変なのに、これを運んで下りるとなると想像を絶するものがあります。


実際、石は木組みに吊るされて、お祭りの御神輿のように何人もの人によって、肩に担いで運ばれました。
特に急な下り坂は事故の起きやすい難所だったといいます。
道の脇の木の下も、よく見ると石が。崖面にも残っています。


これが切り出されて残された戸室石で、こんな道を運ばれていたのかと分かり、その時は満足しました。

ただ後で、なぜ使われずに残っているのかと疑問がわきました。 

大阪城の場合、築城のため小豆島や京都から大量の石を運び、そのルートでこぼれ落ちてしまったもの、使われなかったものが各地にたくさん残っていて「残念石」と呼ばれています。 

約400年前に大阪城の石垣である「エリート石」になれるはずだったのに残念ということでのネーミングです。

なぜ残っているのかは分かりませんが、金沢城版の「残念石」だと思うと愛着が湧いてきました。

さて、戸室石は山から降ろされて、下田上橋で浅野川を渡っています。
橋のすぐそばにモスバーガー、すこし離れたところにはホームセンター、スーパーが並んでいて、あまり石を引いていった気配は感じられません。

橋から下流を見ると、住宅街ですが、上流はまだ少し自然が残っています。


橋を渡ると、「石引」の地名の残るところまで亀坂(がめざか)からあげられました。 
亀坂も探しに行きます。

どこか分からずにウロウロしていると、運良く近所の方が通りかかりました。
聞いてみると、1957年に地元作家の原作映画「地上」のロケ地だった「平らだけど亀坂」と何日か前のの新聞記事に載っていたと、記事も見せてもらい、亀坂がどこか判明しました。

本当に坂というよりは、普通の平らな道です。

わたしも最初は、両側に横切っている坂がそうかと思いました。

亀坂を両脇から見たところ

亀坂の石柱によると、この辺りは深い谷だったが、戸室石を運ぶために埋めて、次第に勾配をゆるくしたということです。 

この亀坂かと勘違いした坂を降りていくと、湧水スポットがあります。

小立野湧水群といって、この大地のがけ沿いに湧水が出ていると知って一度行ってみたいと思っていました。 

出典  国土地理院ウェブサイト
https://maps.gsi.go.jp/index_m.html#12/36.542881/136.667004/&base=std&ls=std%7Crelief&blend=1&disp=11&lcd=relief&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(線と文言を追加加工したもの)

近くまで来たので、暑さしのぎにそこも探します。

また分からず、彷徨っているとこれも別の近所の方があそこかもと教えてくれました。 
水の音を聞くと、暑さがこころなしか和らぎます。

この時には、何も置いていませんでしたが、今でもスイカを冷やすことがあると言います。 

大地の崖地に他にも、湧水があるというので、そちらも探しに行きます。

ありました。
石垣から湧き出していて、横に水の通り道があります。

せっかくなので、崖下を歩いて逆方向から亀坂に戻ることにします。

階段を登り、大地へ戻ると見晴らしのよいところがありました。

この道を進むと亀坂です。

石引にあるなかむら生菓子店さんの本店があります。
石引店は、下馬地蔵尊のすぐそばです。

石引店では、じぞう焼も売っています。
でも、秋から春にかけての寒い時期の期間限定なので、もう少し寒くなったら食べにいきましょう。

今回は、金沢で昔は土用に食べていたと知ったばかりの「ささげ餅」と「ささ餅」をこちらでも見かけたので買いました。

しっかり食感のいいお餅で、笹の香りがかなり強めです。爽やかな風味でした。

さて、本店から少し歩くと、亀坂の石柱が見えてきます。

石柱まで戻りました。


亀坂から大通りに出ると、下馬地蔵尊が見えます。

アーケードの石引商店街を通って、

辰巳用水が開渠となる飛梅町、出羽町を抜け、

さらに進むと突き当たりに、日本三大名園のひとつ、兼六園にがあります。 

右側の重々しい塀は何?と思いましたか?
今は、金沢医療センターという病院の塀です。
でも、江戸時代には加賀八家と呼ばれる一万石以上の家老の家の一つ、奥村家の屋敷の土塀でした。

兼六園は金沢城のお庭です。
ということは、ここはお城のすぐそば。攻められたときの守りの最後の要として、信頼している家老の奥村家を配置しました。

奥村家には、城を守った実績があります。
信長が亡くなり、まだ秀吉と家康が覇権争い中の頃です。加賀藩の祖、前田利家は秀吉方でした。
家康方の武将が攻めてきたとき、能登の末森城というお城を奥村永福(ながとみ)が死守しました。

さて兼六園ですが、コロナの影響で一時的に閉まっています。紅葉の頃には少なくとも開園していると信じます。

兼六園の紅葉 2020年

兼六園側からまっすぐ見ると、晴れた日には、石引の向こうにきれいに山が見えます。

兼六園から石引に向けて 3月撮影


見えている山は石切場のある山ではないですが、戸室石を引いてきたのは、戸室山、キゴ山から約12キロの道のりです。
修羅(ソリのような道具)や地車はあったとはいえ、御神輿のように何人もで木組みを担いで大きな戸室石を運んでくることが多かったと考えると、金沢城がどれだけの労力をかけてつくられたのかと思いやられます。

古代エジプトでは、ピラミッド建設のための労働者にはビールやパンが与えられていました。
決して奴隷が無理やりつらい労働を強いられていた訳ではありません。

金沢城をつくるため、石を引いて来てくれた人たちも、1日の終わりに何かご褒美があったならいいなと思いました。
金沢の街の中核となるお城をつくってくれた縁の下の力持ちに感謝です。


参考
「よみがえる金沢城1」
「ぶらり石引」石引商店街振興組合パンフレット

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