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2021/11/7 過酷な経験から救われる方法と世界をよくする方法の話

文化人類学の名著として知られるレヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」を読んだ。読み始めて面食らったのは、いつまでたっても本題〜ブラジルでの先住民族とのフィールドワーク〜に入らないことで、何とそれが始まるのは下巻からだった。
かわりに上巻に書かれていたのは彼の半生だ。彼がユダヤ人で、ドイツに占領された後のフランスを必死で脱出し九死に一生を得たことを、この本を読んで初めて知った。読み終わった後も、本題よりそっちが記憶に残っている。彼の別の著書「野生の思考」を読んだ時、私が好きな他の人類学者〜ジャレド・ダイヤモンドや「ピダハン」を書いたエヴェレット〜と比較して、どこかペシミスティックな雰囲気を感じたのだけど、その原因はこの体験にあるのかも、と何だか腑に落ちた気がした。

どう考えても理不尽な、または悲惨な出来事に遭遇した後、その後の人生にその影が落ちてしまうことは珍しくはないと思うのだけれど、できればそれに囚われずに生きたい、ということをよく考える。
私の仮説は、過去にそのような出来事があった、自分だけではない、と感じることができればその心の傷は痛みが和らぐ気がして、たとえばこの先、自分がレヴィ=ストロースのような経験をしたとしても「悲しき熱帯」の記述を思い返すことでずいぶんと救われるんじゃないかということ。そして本を読むことの大きな意義のひとつはその既視感を得るためなんじゃないかと言うことだ。

そういえばコロナが流行りたての頃、私の頭にあったのはペストが流行った中世のことで、街に死体があふれて死臭が漂うことを想像してすごく嫌だし怖かった。ただそれは決して未知の怖さではなく、本で知った既知の怖さではあった。たとえ自分がその渦中に巻き込まれたとしても、それはしょうがない、生きている時代に伝染病が流行るとはそういうこと、と諦めがついた。そもそも過去の悲惨な出来事を知っていると、今がいかに恵まれているかを実感することができる。七五三がなぜめでたいか、というと、当時は三歳まで、五歳まで、七歳までと生き延びられない子どもがとても多かったから祝福された。七五三に呑気に写真を撮って喜べる幸福を知っている人は、今の時代に子育てができる幸せを実感する。

とはいえ、こんなことは昔もあった、そういうものだ、ですませるのではなく、もう二度とあってはならない、と感じた人が、後世にその出来事を伝える役割を担っている、世界をいい方向にひっぱってきたようにも思う。
耐えがたいと感じてその後の人生に深い影を落とすほどの痛みを味わったからこそ、それを「知識」として後世に伝えることができるというか。子どもは簡単に死ぬものだ、そういうものだ、と誰もが考えていたのなら、世界はこうはならなかった。

過酷な経験から救われつつ、ただ世界をよくする方にも寄与できる方法はないものか。そんなことを考えた。



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