夏目漱石「草枕」/絶望の中での生きる智慧
『少女ポリアンナ』という、世界名作劇場でアニメにもなったエレナ・ポーターによる児童小説がある。
孤児になったポリアンナは気難しい親戚に引き取られ、なかなかひどい仕打ちを受けるのだけど、亡き母から教わった「よかった探し」によって自分に起こる出来事を前向きに捉えて、その生きる姿勢が周囲の人の心を溶かしていく―――そんなストーリー。幼少の頃にこの本を読んだ時、これこそ生きる智慧、とそう思った。どんな事柄にもいい面と悪い面があって、だったらいい面だけみていたら得じゃない、そんな考え方。
直近だとせっかく奮発して泊まったリゾートがあいにくのお天気続きで、みたかった夕焼けをみることは3泊の滞在期間中、叶わなかったのだけれど、これでまた次に来る理由ができた、そんな「よかった探し」をした。
ただ子どもができて、そして家庭をもってからというもの、どうも「よかった」を探す自信がないことがある。それが子どもとの死別だ。
4年前に母親となってから、何度も子どもが亡くなるニュースに触れ、もし自分の子の身におこったらどうするんだろうと毎回想像しては絶望した。事故や事件、病気、そして原因が分らない突然死。一緒にいれた時間に感謝すること、はできるけれど、そんなかけがえのない子との別れを「よかった」と捉えることはどうしても無理がある。
アーミッシュというアメリカのキリスト教を信奉するコミュニティで銃乱射事件があり多くの子の命が失われた際、被害者の親達が、銃を乱射後自殺した犯人のお葬式に出たということで世の中に衝撃を与えた。ただそんな信仰心の強い人たちですら、「自分の子どもが殺されてよかった」とは決して思わないだろう。神に赦されたように自分も犯人を赦す。それが人間の限界なように思っている。
夏目漱石『草枕』にはこんな一節がある。
『草枕』の有名な英訳のタイトルはアラン・ターニーがこの箇所の「三角」を取り上げ名付けたもので、”The Three Cornered World” と言う。
なぜ『草枕』を直訳せずに”The Three Cornered World”とアラン・ターニーは訳したか。それは本人がこの一節こそこの本の核心だから、と、この英訳本に沿えられたIntroductionの章で彼自身が述べている。
一角を摩滅する、三角のうちに住む、とはいったいどういうことか、と考えた時、この本で繰り返し言及される、イギリスの画家、ジョン・エヴァレット・ミレーが描いた「オフィーリア」が頭に浮かぶ。
シェイクスピア『ハムレット』に登場するオフィーリア。婚約者が事故とはいえ自分の父親を殺し、更に自分の兄が復讐のために婚約者を殺そうとしている…それで発狂して川に落ち、溺れゆく、という有名なシーンを描いたのがこの絵だ。
『草枕』の中で語り手の画工はこの作品を「風流な土左衛門」なんて喩えてみせる。そして「余は余の興味を以て、一つ風流な土左衛門をかいて見たい」なんてことを言う。
「風流な土左衛門」とは、今風に言うと「映える水死体」だろうか。「自分も映える水死体の絵を描いてみたい」なんてSNSに書いたら一発で炎上しそうな、何とも不謹慎な感想だ。たとえば自分の子が川で溺死してしまって、絶望のうちに打ちひしがれている時に、誰かが「風流な土左衛門」なんて言ったなら・・・
ただ案外、実はそれがせいいっぱいの「よかった探し」なのかもしれない。別に「風流な土左衛門」という視点を手に入れたからといって、悲しみがどこかにいくことはない。ただ「悲劇」の中に「風流」を見出すことができたなら。
それはいくぶん、心を慰めることになるんじゃないか。そしてそれこそが「一角を摩滅する、三角のうちに住む」、常識に囚われない、芸術家の物の見方なんじゃないか。
本当はただでさえ美しい夕焼けを更に美しく描くような、または雨続きのうんざりするような天気の中に「美」を見出すような、そんな芸術の方がいいに決まっている。子どもの死に目なんてどうしたって見たくない。孫の成長、できたらひ孫の成長みたさを心残りに、自分が先に命を終えるのがいいに決まっている。ただ思いが叶わぬような時、それに類するような悲惨な事柄の中に「美」を見出すことが、案外生きる智慧で、芸術の真骨頂なのかもしれない。そんなことを思いながら『草枕』を読んだ。
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