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生き延びるための折衷主義

新建築住宅特集2020年6月号に掲載された拙作「西坂部の家」の私家版原稿です。掲載では文字数の関係で省いた部分を含めています。

誌面では省かれたのですが、「戦後バナキュラーとつながる」という副題を付けていました。
日本の風景を実質的に形作っている、地方に広がるごく普通の民家、メーカー住宅、看板建築などを「それはそれ」とやり過ごすのではなく、建築の外部として語るのでもなく、設計者の立場で建築を取り巻く環世界の一部として捉えたいと思っています。
それらは一種のバナキュラーなのである、というのはそのための仮説です。

まぁ説明しすぎるのは野暮かもしれないし、建築の面白さはもちろん語られない部分にこそあると思うのですが、同時に、語れば語るほど、語られない部分が豊かになるとも思っています。

語り尽くしてなお言葉を失うというのが、憧れている建築です…

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生き延びるための折衷主義
──戦後バナキュラーとつながる建築

西坂部の家は1984年、当時4人だった核家族のために建てられた住宅である。建築物と畑と工作物がパラパラと並ぶ市街化調整区域の風景に建つ。築35年を経て元の家族と新たな家族が共に暮らす家へと更新することになった。

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外壁はモルタルリシンとトタン、屋根は瓦、アーチがついた玄関ポーチ、南に3間で北にはタイル貼りのキッチンと水回り、飾り格子のついた階段、そして仏壇、死者の気配。
建築家の作品でも築年を誇る古民家でもない普通の住宅の、即物としての逞しさに圧倒される。
築年を経た木造の情報量は生かし、かつそのテクスチャーに頼りすぎず、どうやって新しい文脈に接続できるだろうか。
計画の伏線は、一方で生まれて来る新しい命があり、一方で死者がある、そういう重層的な時間の中に生きることである。特に便利な場所でもないけど、人が生まれて死んできたこの場所でやっぱり生きていくという地に足のついた選択は美しいなと思う。
だから新しい家と同時に古い家もまた必要なのだ。

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この改修/増築のプロジェクトは、地方に広がるごく普通の民家、メーカー住宅、看板建築など日本の風景を実質的に形作っている、しかし建築の世界では語られることがない建築を一種のバナキュラー建築=戦後バナキュラーであると位置付け、それらと積極的に共存しようという試みである。
アドホックから学ぶこと、即物的であること、そこに抽象性を見出すこと。
結果としての共存はもとより、戦後バナキュラーを、設計を通して建築的に再発見するプロセスとしての改修であり増築であることが重要であると考えた。

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とはいえ、再発見するプロセスとしての設計とは一体何を指すのだろうか。
その作業は手探りだったが、ひとつの仮説として、納まりと構成の違いがその立ち現れ方を決定すると考えた。そこで既存住宅と新築部分、それぞれで用いられる手法を逆転させることを試みた。既存に対しては現代住宅の手法で臨み、新たに付け加える部分には慣習的な作法を用いるのである。
手法の意図的な混在は折衷と呼べるだろう。

既存住宅については、現代住宅で一般的な手法である、ヴォリュームスタディを用いてその骨格をとらえ直し、3つの小屋に分節した。
既存住宅は玄関ポーチを境に、平屋の東棟と2階建ての西棟に大きく分かれている。また、平屋部分含めた1階は切妻、2階は寄棟の屋根がかかっている。つまり東/西、という分節を横断する屋根の1階/2階という意匠的な処理によって、この住宅が形成されていることがわかる。
そこで、東棟と西棟を切り分け、さらに1階と2階も切り分けた。こうして母屋は3つの小屋に分節されることになった。
切り分けてできた隙間で構造補強を施している。

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増築部分は慣習的な方法に則るべく周辺の家々や小屋の建て方を観察し、第4の小屋としてつみきの家のように文字通り家の上に建て増している。
増築は棟瓦よりも高い位置に床を上げた。もち上げることで、それまで若夫婦が住み慣れた対面の擁壁の上の新興住宅地とほぼ同じ高さになるからだ。
第4の小屋は調整区域の作法に倣い、素材はラフに、取合は抽象化=手跡の消去に走らないよう気をつけた。
既存と増築の渡り部分の室内には屋根瓦が露出し、鉄骨の柱脚にもあえて即物感のある頬杖を用いている。
同時に調整区域の建物の大らかさや軽やかさを保つためにはシンプルでありたいとも思った。抽象化せずにシンプルにするためには、成り立ち自体を簡潔にする必要がある。
一方、既存住宅から3つに切り出された小屋は既存柱梁の圧倒的な情報量を見せつつ、新たな部分では取合の線をなるべく減らす現代的なディテールを用いて意匠をまとめ直した。

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結果、新しいものが古さを帯び古いものが新しく見える状態が現れたと思う。
そこにある物の現れと時間の関係に、環境と似つつ異なる「風土」という言葉を思う。トタンのきらめき、新建材の手触り、田んぼを埋める柔らかい地面、塩ビ管の振舞い、この近郊で観察されるそれらは今の社会の「風土」であろう。

この増築/改修が、元の住宅を包摂しつつ新たなバナキュラーとしてオルタナティヴな風土の広がりを予感させるものであったらうれしい。

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誌面の写真は新築社カメラマンで鉄オタのK氏撮影なのですが、見開き二番目の畑から見た夕景が面白いなぁと思いました。

母屋が敷地内の倉庫を引き連れ、増築が背伸びして背後の擁壁上に並ぶ住宅地につながり、一連の建物の様子が風景に埋没しつつも妙に自律的に見える絶妙なアングルです。夕刻というのもいいですよね。陽が沈むその一瞬、ものに命が宿るパラレルワールドが開くというか…

しかし、こうして並べてみると私はまだまだ設計が下手だな、と若干落ち込みます。

もっと設計が上手くなりたい。もっともっと上手くならねば。




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