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清瀬から考える世界の戦争とウクライナの平和

 地球社会と中東という授業を大学で教えています。これから大学生たちがどういうキャリアに進んでいくのかの参考にしてほしいということもあり自己紹介を最初の授業でやります。
 というのもイエメンから始めた国際協力のキャリアは、シリア、パレスチナ、イラクと戦争だらけだったからです。

清瀬から始まった太平洋戦争


 子どものころから戦場で仕事をするなんてことは考えたことはなかった。生まれてすぐ髄膜炎に罹り、名医のおかげで九死に一生を得たらしく、その話を聞かされて育ったから医者になりたいと言っていたらしい。

生まれてすぐ髄膜炎になり勉強が嫌いになった

 奈良で生まれ育った私は、故郷への愛も強い。しかし、中学3年の1学期が終わると東京に転校することになり、いつの間にか東京の生活が長くなり、実家も売り払ったので東京人としてのアイデンティティも強くなってしまった。東京はでかい。私が住んでいるのは清瀬市で埼玉県の県境である。病院がたくさんあるが、それ以外はこれと言ってみるものはない。自分から進んで住もうとは思わない。なので、自己紹介するときに清瀬という言葉は今まで出てこなかったのだ。

国家プロジェクト「ひまわり」

 実は、父が「ひまわり」計画という国家プロジェクトに駆り出されることになって清瀬に移り住むことになった。このひまわり計画とは、世界気象機関(WMO)が1963年に計画を立案した、 静止気象衛星5機を赤道上空にほぼ等間隔に配置して、 地球全体にわたる広域の連続した気象観測を実現させるという壮大なプロジェクトだ。
西太平洋及びアジア地区の観測のための静止気象衛星を打ち上げる要請が日本国にあり、 1972年に宇宙開発委員会が静止気象衛星を開発し打ち上げることを決定したのである。
 私たちが引っ越したのは、1976年。清瀬の駅に降り立つと畑が広大に広がっている。奈良の同級生たちは、「東京に行ったら芸能人のサインもらって」と口々に言う。しかし、思ったよりも田舎で、畑のおおきさがアメリカのように感じた。中学3年生の私は、気象衛星センターの構内の宿舎に住むことになった。父の職場も目の先で、よく弁当を届けたりして中を見せてもらった。父はラジオを聴きながら天気図をつけるのが日課であったが、気象衛星が飛ぶと写真が送られてきて予報の精度が極めて高くなるらしい。一生懸命説明してくれるのだがそういうのもうっとおしい。夜勤もあり昼間から父が家で寝ていることが多く、だらしなく見えてとても嫌だった。
 
 まず、私は学校になれなくてはいけなかった。関西弁を直さなくてはいけない。幸いにも、私の席は不良の真ん中にされて、一人は、ドラムをたたくイケメンの不良。彼女がいて、覚えたてのセックスの話をしてくれた。もう一人は、勉強ができないリーゼントの不良で、英語の教科書にはいつあてられてもいいようにカタカナでルビをふってやっていた。
 1976年、私は高校生になっていたが、あまり居心地のいい高校ではなかった。短期間で関西弁を直してしまったのはいいけど、無理がたたり、人前でしゃべれなくなってしまった。そうなると容赦なくいじめられるのが日本社会だ。
記念すべき静止気象衛星GMSシリーズの一号機が打ち上げられ「ひまわり」と名付けられた。まだ日本は独自で衛星を打ち上げることはできず、アメリカ国防総省のケープカナベラル宇宙軍基地から打ち上げられたのだ。1-5号機までは、GMSシリーズだが、気象庁に予算がなく、運輸省航空局と合同で、運輸多目的衛星MTSATシリーズとして打ち上げられた。MTSAT-1号機は、「みらい」と名付けられたが、打ち上げに失敗。MTSAT-1R は通称ひまわり6号機、MTSAT-2 号機はひまわり7号機と呼ばれている。8号機、9号機は、気象庁単独で打ち上げられ、GMSシリーズをパワーアップして静止地球環境観測衛星とも呼ばれているらしい。エヴァンゲリオンに出てきそうな話である。
 

私の中学はこんな感じ


打ち上げに成功!

さぞかし、清瀬市は盛り上がっていたと思うが、残念ながらほとんど記憶にないのだ。自分のことで精いっぱいだったと思う。

宿舎でくらしていた。

太平洋戦争とベトナム戦争で果たした大和田通信所

 そもそもなぜ清瀬に気象衛星センターがつくられたのか?
運動会や遠足の前の日には、天気予報を見てテルテル坊主を作ったもので、平和なイメージがあるが、戦時下において気象情報は極めて重要なのだ。
清瀬市と新座市にわたり旧海軍の大和田通信所があったのだ。どうもこのあたりは、電波の入りがもともとよかったらしい。
1940年(昭和15年) - 旧海軍気象通信所として設置。1941年12月8日には、アメリカに対して奇襲作戦に打って出て、真珠湾を攻撃。ついに日米戦争がはじまるのである。この時の有名な「トラ・トラ・トラ」(我奇襲に成功セリ)という暗号を受信したのがこの通信基地だ。
そして、日本が降伏するように突き付けられた「ポツダム宣言」を受信したものもこの基地である。原爆を搭載したエノラゲイの動きも傍受したものの、原爆については確認できなかったという。
 1950年にはアメリカ陸軍が施設を接収し、気象庁は分室とされた。米軍の通信基地となった大和田通信所は、ベトナム戦争でも重要な役割を担うのである。

アメリカは1965年から北爆を開始。泥沼のベトナム戦争に介入。1973年にはサイゴンが陥落し撤退を余儀なくされた。アメリカは完全に負けた。
大和田通信基地の周辺は畑と森が広がっている。

大和田通信所と気象衛星センターは、少し離れており、両親は米軍基地のフェンスの外の土地を借りて畑を耕していた。週末に私も手伝いに行ったものだが、フェンスの内側には米兵がいてバーベキューをしたりしてくつろいでいたのを思い出す。また、当時米軍が使用していた洋館のような廃墟が近くになって、そこに忍び込むのがとても楽しかった。そこは、米兵専用の売春宿だろうと勝手に空想するのが楽しかった。

私はコロナの影響で2年間海外に出ることもなく地元で過ごす時間も多くなり、懐かしくなって大和田基地の周りを散歩してみた。ソ連が崩壊した後は基地の設備も縮小されたらしい。

なぜプーチンは戦争をするのか?

 ここのところ毎日膨大な量のウクライナのニュースが流れてくる。プーチンがどんどん孤立していくのを見ると、かつての日本のようにも見えてくる。大日本帝国が大東亜共栄圏を拡大し、孤立していく中での経済制裁。国際連盟の脱退、そして泥沼の太平洋戦争で挙句原爆まで落とされる。
 強引にこじつけてみると、ゆうことを聞かないロシアを孤立させ、経済制裁、そして国連からの脱退、最後はアメリカが原爆を落として降伏させる。
しかし、日本とは違うのはロシアが核を持つこと。そして、アメリカはロシアのような大国を占領して民主化しようなんて思いは最初からないだろう。もはや世界の警察などとは程遠く、アメリカファースト。この戦争で儲かればいいとしか思っていない。
 私の考えをいっておくと、(ただし、ウクライナに関しては正直よくわからないので、中東で見てきたことの肌感覚で言わせてもらう)
1)ウクライナの政権が、親ロシア、親EUなのかは、これは、エネルギー安全保障も含めてウクライナ人が民主的に決めていくべき問題で外国が介入して混乱を招くようなことはすべきでなかったし、今後もそう。
2)確かにNATOに入る入らないはそれぞれの国の自由ですが、冷戦終了後もNATOが、旧態依然とロシアを仮想敵にするという考えそのものがおかしい。ロシアも入れてみんなで平和を作りましょうという集団安全保障、対テロ安全保障を模索すべきだった。
3)ドネツク、ルガンスクやクリミアの少数民族のロシア人の人権が守られるべき。
4)ロシアの軍事進攻は国際法に違反する。無条件の停戦、撤退すべき。

そんなことを考えていたら面白い記事を見つけたので紹介します

 

つまり「怒り」という感情により起こされた攻撃行動 で、日本は、負け戦に臨んでいったという解釈だ。プーチンにも同じことが言える。今国際社会が求めているのは、ロシアをボコボコにして原爆を「まいった」と言わせることではないはず。必ずしもかつての日本の状況とは異なるが歴史から学んだものを今に活かしていくことで最悪の状況は回避できるのではないだろうか?

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