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パレスチナの子どもたちがイマジンを歌った

2000年の夏。パレスチナにいたときに、ボランティアやりたいって若者が訪ねてきて、ビートルズのコピバンをやっているとかいう女の子だった。ベツレヘムの難民キャンプの子どもたちにビートルズを教えてもらうことにした。僕がビートルズを聞き出した中学生の時は解散してすでに4年たっていた。
僕が初めて買ったレコードは、Let it be のカットバンだったような気がする。そんなにレコードなんか買える時代ではなかったから友達から借りる。だから、友達は大切だった。ビートルズの4枚組ベスト盤になぜかジョンレノンのイマジンが入っていた。あまり歌詞の内容とかどっちでもよかった。まだベトナム戦争が終わってなかったけど、中学は言ったばかりの僕は世界の平和とかそんなことはどっちでもよかった。文化祭で誰かが、戦争をテーマにしようと言い出し、戦争って言っても、交通戦争とか、受験戦争とかいろんな戦争があるよね!ってそっちの話になってしまっていた。

あれから大人になり、30代半ばの僕は、パレスチナにいた。
イスラエルが建国されてから50年。つまりパレスチナ人の大惨事から50年の1998年。1999年にはオスロプロセスでパレスチナができるかもしれない。何よりも20世紀が終る瞬間にそこにいるという興奮があった。
20世紀を振り返ると、戦争の世紀と言われていた。第一次世界大戦は1500万人。第2次世界大戦は8000万人にも。日本は平和になったが、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、バルカン戦争と戦争が絶えることはなかった。そして、ここパレスチナでは、戦争が続いていたが、オスロ合意1993年で、平和に向かう期待もあった。恋愛の歌でも何か自分に落ちてくるから好きになる。
ビートルズのLet it beをパレスチナで聞くとこんな風に聞こえるのだ。

And when the broken-hearted people
衝突で殺され,収監され、心が打ちのめされてしまっても
Living in the world agree
国際法で守られた世界で生きている限り
There will be an answer, let it be
答えは見つかる 。それしかない

For though they may be parted
たとえ意見が対立して、交渉は断絶しても
There is still a chance that they will see
再びチャンスはまだ残されている
There will be an answer, let it be
答えはきっと見つかる それしかない

イスラエルのミュージシャンもアラブ人と一緒にビートルズをよく演奏した。
We can work it outもその一つだった。

イマジンはもっとストレートだ。

想像してごらん。
国境も宗教もない
殺す理由も、死ぬ理由もない
みんなが平和暮らすことを

夢追い人と揶揄されてしまっては、毎日パレスチナ人が収監され、殺されイスラエルという国が拡大していく現実。現実はあまりにもひどい。日本で暮らしている僕らには到底想像なんかできない。
 僕もそうだ、2019年までは、イラクとかシリアで目いっぱいで、パレスチナのことは、殆ど追っかけてなかった。
今年はすでに、かつてないくらいのパレスチナ人がイスラエル軍に殺害され拘束されていた。
この夏、パレスチナから人権活動に携わ停る若者たちが来日するというので楽しみだった。Human Rights now の伊藤和子さんを彼らに紹介して何か連帯できればいいなあと思った。
彼らは、イスラエルの人権侵害を知ってほしいと訴えていた。
イスラエルの団体のHPには、いろいろなファクトが掲載されている。
https://www.btselem.org/
なかなか我々は知らない話だし、イスラエルの普通の人たちは、このような人権侵害が日常茶飯事だということをほとんど知らないのではないか。イスラエル人であってもそういう活動を続けるのは命懸けだ。
今回、ハマスとイスラエル政府との人質交換で明らかになったのは、8000人ものパレスチナ人がイスラエルの刑務所に拘束されているということ。10月7日以降で3000人もが拘束されているという。中には、SNSで、イスラエル政府を非難しただけの人もいる。
実際にエルサレムのパレスチナ人が教えてくれた。「IDを見るよりも先に、イスラエル警察が携帯を見せろという。それで問題があると直ちに拘束されてしまう」

 2000年の夏
僕が働いていたNGOは、ベツレヘムの難民キャンプの子どもセンターを支援していたので、
難民キャンプの子どもたちにイマジンを教えることにした。
キャンプのリーダーは、「なんだい?この曲は?」
彼は、いつも周りを気にしていた。
「みんな、国境のために命を失っているんだ。宗教がない世界っていうのは、僕ら的には、OKなんだけど、ハマスが聞きつけたら大変なことになるなあ」そのキャンプは世俗派の党派が支配していた。
でも彼はとてもこの曲を気に入って、英語の先生を連れてきて、子どもたちにきちんと発音するようにと諭した。
そして、キャンプデービットでは、パレスチナの独立に向けて最終的な調整が進んでいた。イスラエルとの2国共存は目の前に迫っていた。
約束の1999年は過ぎてしまったがパレスチナという国家ができることは皆疑わなかった。もう21世紀になったのだから。
 難民キャンプで広島の展示をしてそのセレモニーでイマジンを歌った。
今じゃ信じられないだろう。平和が来ることはそれほど難し事ではないようなそんな雰囲気もあった。むしろジョンの世界に近づいている。
イスラエルの首相は当時労働党のバラクだった。
「私がパレスチナ人なら、石を投げる気持ちがわかる」とまでかれは言ってのけた。
しかし、私たちはただの夢追い人だった。
まだ僕らにチャンスはあるのだろうか?


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