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可能性を信じること。

以前参加した勉強会で、印象的だった話があった。
そのひとつが、可能性を信じるということと、その信じるあり方の話。

その方が学んできた授業の話で、教授が、何も言わずにただ紙を置いていった、というのがあった。
何も指示しない。それが授業。
何も言わなくても、そこにいる人たちは何かをするはず。
実際、最初はおずおずとながら、何かをはじめる人が出てくるそうだ。
(詳細忘れてしまったけどざっくりそんな感じ。)

人には何かを起こす力があるはずだと信じているから、何も指示せずアドバイスせずただ見守る。

それを、説明もせずにただそうしてそういることで表すのってすごいなと思って聞いていた。

その後のワークで、ゴールとして決めることだけを提示されて、参加した人たちで自由に考えていった。

そのとき、主催者の方はただ見ていて、ほとんど何も言わなかった。
それが、何かが起こるのを信じて見守ってくれているということの、体現かなと思う。

そうは言っても、何をすべきかは提示されていたし、メンバーも多くはなかったし、勉強会として講義を聞いた後だったし、何かを起こしやすい状況だったわけで、何も説明なく信じられているってどんな状況でどんな感じなんだろう?と思う。

説明を聞いているから「何かが起こると信じて見守る」ということになるほどと思うけど、何もわからないままその授業ってびっくりするし不安になりそうだと思う。

でもそのときの生徒の人たちは、わからないままに何かを信じて動いたのかな。
先生を信じていたから動けるのだろうか。
動き出した人に影響されて動きはじめる人もいるとか思うけど、少なくとも何かをやってみようとする人がいるわけで。
何を思って、どんなきっかけや動機で、何かをはじめようとしたのだろうか。

生徒同士の間でどんなことが起こるのだろうというのにも興味があるけど、その生徒たちと先生の間にも何が起こっているのだろう?と思う。

先生側は、信じるとかいちいち言うまでもなくただ信じていて、だからそこで何が起こるのかとか楽しんでいるのではないかとも思うけど。
楽しむでもなくあたりまえに見ているのかもしれない。
生徒側は何かを先生から感じて動くわけではないだろうし、でも何か動いて何かを起こしていくことで生徒の中だけでなくて先生との間でも何かが生まれる気もする。

そういう風に信じたり信じられるということってなかなかないように思う。

私は、人の可能性を信じていると思っているけど、でもそれって、信じるって思って信じているだけのように思えて。
その人たちのように、あたりまえのように、ただそうしてそこにいるだけみたいな感じで、信じるとも思わないで信じている、というようにいたら、自分やまわりに何が起こるのかな?と体感したいなぁと思う。

単にそれくらいの信じるっていうのをやりたいのかもしれない。

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