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一般解でなくて、「自分は」どうなの?

信頼していれば、安心できれば、自ら発言や行動ができる。

というようなことはよく言われるし、実際そうだとは思うんだけど、ただそれを「心理的安全性」というような言葉ですませたくはなくて。

どんな信頼や安心があればいいのかって、一般解はあるのだろうけど、ひとりひとり違うだろうし、ひとりの中でも状況や気分でも違うだろうし。

一般的にはこういう状況だったらいいでしょう、みたいなのは違うと思う。最低限そういう一般解的な状況をつくるように、場をつくる側は気を付けたいよねっていうのはわかるけど、そうしたら大丈夫ってわけではない。
それぞれの感じ方違うよね、っていうだけではなく、「一般的に言われていることしたらよい」っていうのは、ただの作業であってその場を見て感じていないと思うから。

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それぞれの感じ方が違って、それぞれの大丈夫って安心が違うということ。

自分が大丈夫だからって、ほかの人が大丈夫と限らないし、誰かが安心して発言したりチャレンジできていたら、ほかの人ができるってわけじゃない。

それぞれに配慮した環境をつくるのは難しいと思う。
できると思うけど、一方的に誰かがつくろうとするのでは無理じゃない?って思う。

まず、それぞれ違うんだよね、って理解するのが大事だよね。
言うまでもない当たり前のことだけど。
頭ではみんなわかってると思うんだけど、でもつい何かしたりするとき、何か反応期待するとき、自分基準で考えてしまうから、特に何か相手に求めるようなときには意識していたいと思う。

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で、それぞれ違うよねっていうのはみんなわかってると思うんだけど。

自分はどうなんだろうな?っていうのを、ちゃんと自分で知っていたいよね。

状況が整ってないからできない、っていうようなとき、じゃあどうなったらできるの?ってなかなか答えられないと思う。
こういうのが苦手だけど、こういう場合はがんばれるっていう。
何があればチャレンジできるのか、何があったらできなくなるのか。

人に環境を求めてしまうときだけじゃなくて、自分で何かしたいって思うときにも、自分のことわかってないと進みにくいじゃない?
環境のせいにして進めなくなったりするじゃない?
自分でわかっていたら、自分が動きたいときには自分で環境つくりやすくなるから、まず自分はどうなの?って知っておくのがよいと思う。

自分のことだからなんとなくはわかっているはずなんだけど、でもしっかりわかってないことも多いところだと思うので。
わかっているだけでも、いざというとき違うなって思う。

自分はどうなの?って問いたいし
あなたはどう思う?どう感じてる?って聞いていきたい。

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