見出し画像

共感風でいるよりは共感できないままがいい。

共感はいいこと、共感するのがいいこと、みたいな雰囲気があるよね?

共感したり共感されたりすると、親近感が湧いたりつながりやすくなったりする。
だから、共感はいいよね、っていうのはわかる。

でも、だから共感しよう、とか、共感できるように、とかいうのは違うと思う。
ほんとに共感できてないのに、共感しようとしたり共感してるように見せたりと、共感ぽさを装う、共感風でいるくらいなら、共感できないままの方がずっといいと思っている。

わかってなさそうな軽さで「わかるわかる」って形式的に相槌打たれるのとか。
前後の会話からはわかってなさそうなことがわかるのに、わかったつもりで話されるのとか。
わかるはずもないことに「わかるー!」って言われるのとか。
マニュアルどおり型どおりに「わかるよ」って言ってるな?って反応とか。

そんな、形だけの共感風を示されても、もやっといらっとしてしまう。
ほんとに共感してるのかそうでないかって、相手からはめっちゃわかるし、共感してないなら、共感できない、わからない、って前提で、話をする方がいい。

共感できないなら共感しようともしないまま、ただ「そうなんだ」「それで?」って、聞こうとしていたらいい。

わからないならわからないで、「どういうこと?」「詳しく教えて」って、聞いてみたらいい。

それは、共感できなくてもわからなくても、だけどもっと知りたい、あなたに関心があります、っていうことだと思うから。

相手が関心を持って聞いてくれるのって嬉しいじゃん?
ただそれだけでいいと思う。

関心を持ってくれて、知ろうとしてくれて、知っていって、そういうことによって心の距離も近づいたりして、結果的に共感につながったりもするだろう。
でもそれは、結果であって目的でない。
共感しようとする必要はまったくない。

そもそも、共感のベースが、相手への関心なのではないかと思う。

同じような考えだから、同じような経験をしているから、と、その人自身でなくて、考えや経験に関心があるようにも見えるけど、結局はその共通点をきっかけに、その人に関心が湧いてるよね?
人には関心がなく、まったく好きでなく、ただ考えなどが同じというときに「共感」って使わないと思う。(「賛同」とか、「考えだけは同じ」みたいな言い方しない?)

「共感」っていう結果にこだわらないで、ただ相手に興味をもってつながれるのがいいよね。

ライティング・ライフ・プロジェクト2024年8月期募集中です。
お問い合わせなどはこちらからどうぞ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?