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支援するというのは、何かをさせることではない。

読んでいた本に
「気づかせることと、気づきにいたることを助けることとは異なる」
「後者の場合、気づきにいたらないこともありえるし、それでもよい」

ということが書いてあって、めちゃくちゃ納得というか共感というか、これだよね!と思った。

学びの場をつくったり相談にのったりするとき、何か気づいたりしてくれたらいいな、とか、何か得るものがあったと思ってもらえたらいいな、とか思うけど、「これに気づいてほしい」「これを学び取ってほしい」などと思うのは違うと思っていて。
気づいてもらいたくてサポートするだけだ、と思っていても、具体的にこれを気づいて学んでと意図していると、サポートではなく誘導に近くなると思っている。

なのだけど、「誘導はしていない、相手にこう気づいてほしいと思って問いかけているだけだ」と言う人に対して、うまく説明できなかったのだ。
これに気づいてほしい、これを持ち帰ってほしい、って思って問いかけたらそこにもっていってしまうと思うし、自分がやりたいのは(そしてキャリコンとしてこうありたいと思うのは)そうじゃないってところが。
何か気づいてくれたらいいけど気づかないかもしれない、っていうのでいいのではないか、っていうことが。

これからはこの言葉のように説明したらいいのだと思ってすごくすっきりした。
(もちろん、その説明を相手が受け入れるかどうかは別なのだけど。気づかないこともありうる、っていうのでよいという人は少ないかもしれない。)

助ける、支援する、というのはいいことなのだけど。
いいことだとされていると思うけど。

でも、手を差し伸べすぎるのは、その人の力を奪っているのと一緒だと思う。

ほんとはできるはずなのに、ひとりで何かを手にするはずなのに、自分で気づいたり学んだりするのに、先に手を差し伸べるのは、その機会をなくしてしまう。
機会をなくしているうちに、そこで使うはずの力を使わなくさせてしまう。

そのときにその人が必要なことを、ほんとはつかみとれるはずなのだ。みんな。
きっと本来もとからそういう力を持っているはずだ。

だから、助けすぎたらいけないのだと思う。
ちょうどよい「助ける」「支援する」と、「助けすぎる」は線引きしなければいけない。

何に気づくか何を学ぶかは、その人次第だし、他人が決めることではない。
導こうとしなかったら、気づかなかったりとか、想定していたものと違うことを学んだりとかになるかもしれないけど、それはそのとき必要なことを手に取り必要でないことは受け取らなかったっていうだけなのだと思う。

改めてほんとに、「気づかせたい」「学ばせたい」「こうさせたい」って意図しすぎないように、自分が相手をコントロールしようとしないように、相手の力を信じて向かい合いたいなと思う。


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