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まわりの気配を感じられるか?

ODNJ中部の人たちと、場を見るトレーニングなどをやりたい、と話していたとき。

まわりの様子を見て配慮できていない人が多い、まわりの状態を感じられないのではないか?
まわりの状態を感じられないのは、想像力が足りていないのではないか?という話になった。

こんなことを言ったら相手がどう思いそうか、こんな状況ではほかの人がどんなことを感じていそうか、そういうことを想像できないから、人を傷つけたりケアできなかったりうまくやりとりできなかったりするのではないか。
それで、関係性がつくれなかったりコミュニケーションロスが発生したりチームや組織がうまくいかなくなるのではないか。

なんで想像力がなくなってきているのだろう?

若い人たちの場合、昔とは環境が違ってきているというのも大きいと思う。

習いごととか塾とかで友達と遊ぶ時間とか少ないし、LINEやSNSなどでのかんたんなコミュニケーションに慣れてるし、傷つかないように大人たちが配慮しすぎたり介入したりするし、小さなけんかをして仲直りしてを繰り返しながらコミュニケーションや相手の気持ちを考えることを学ぶような経験は少なくなったり浅くなったりしているようにも思う。
傷つかないように、似たような考えの人だけと一緒にいるとか、最初から踏み込みすぎない関係性まででいるとか、合わなくなったらすぐ離れるとかいう話も聞く。

ゲームとか動画を見ることが多くて本を読むのが少ないと、想像しながらコンテンツを楽しむということも少ないと思う。
ゲームや動画やまんがなどもストーリーはあるけど、画像やテロップがあったりすると想像しなくてすんでしまう。

多量のコンテンツがあるのもあって、タイパとか言ってコンテンツの概要だけを把握する人も増えている。わかりやすくてかんたんで短いコンテンツをメインに楽しむ人も増えている。

だけどもっと上の世代でも、相手のことを想像できない人はいる。
こんな風な環境的な影響もあるだろうけど、それだけではないとも思う。

人の気持ちを想像できないという前に、自分の気持ちがわからない、という人が多くなっているように感じている。
キャリア相談などでも、やりたいことがわからないとか、どんなことが楽しいおもしろいとか思いつかないとか、話す人も多い。
ワークショップなどで、今何を感じているか?と聞かれたりするとき、答えられない人が多い。

自分の気持ちも考えている余裕がないまま、ほかの人の気持ちを考えられるのか。

自分が何を感じているかわからないのに、まわりの人が何を感じているか想像できるのか。

みんなのため組織のため、みたいなのに翻弄されて、組織や社会に合わせて、自分の気持ちを押し込めたり、自分が何を感じているかわからなくしたりしていないだろうか。
自分のいる環境の中で問題なく過ごせるように同調して、まわりをうかがってばかりで、自分がどうしたいか後回しになっていないだろうか。

でもそれは、どう見られているか、まわりに合わせられているか、どんな風に評価されそうか、みたいなことは、想像できてるってことじゃない?
自分が気にすることについては、相手もどうだろう?って考えられるのだと思う。

だから、想像そのものができないのではなくて、想像できるものが限定されているのではないだろうか。

仕事や勉強のようなときには、気持ちとか感覚とかはおいといて、思考と理論に重きを置かれているけども、無駄なことを排除して効率よくしているようで、それがロスを生んでいないか。

組織のためのシステムやルールに則って、人らしさを消すことで、結局は組織としてもうまくいかなくなっていないか。

関係ないような、無駄なような、それぞれの人の気持ちとか感覚とかが、ほんとは大事にしないといけなくない?
組織のために殺すものでなく、組織のためにも必要なんじゃない?

そう思っているので、「あなたはどう思う?」「どう感じている?」というのを問いかけたいし、自分で問いかけられる人が増えるといいと思う。

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