相手に向き合うということ。
”これはこういうものだ”と決めてそのようにする、というのが、あまり好きでない。
理解するのが難しい公式などを、こういうものだと覚えて使うのはまだいいとして。(公式でも、できるだけ、なぜそのような公式がうまれたのかを理解して使いたい。)
人に関することで、こういうものだと型にはめるようなのがほんとに苦手。
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で、最近いらっとするのが、「傾聴している風」「共感している風」みたいなの。
傾聴が大事だよね、共感は必要だよね、というのが、理論として広まっている弊害ではないかと思ってしまう。
大事だし必要なんだけどね?
傾聴してもらえるのがよかったり、共感されたら嬉しかったりするんだけどね?
だからといって、「傾聴するのはいいことだから傾聴する」とか「共感しないといけないから共感する」みたいなのはどうかと思うわけ。
そして、そういう、「傾聴ってこういう風に聴くものだからこうする」「共感ってこういう風に話すものだからこうする」っていうのが増えてないかな?って思う。
そんな義務みたいなマニュアルみたいな「傾聴」とか「共感」されるくらいなら、されないほうがましなんだけど。
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「こういう風にするのがXXだ」というのをなぞるから、そうなるんじゃないかと思う。
たとえば、傾聴というか、相手のことをしっかり聴こう相手を知ろうと向き合っていたら、マニュアル的にどうするかではなく、そのときの自分が感じたままの聴き方になるはずで。
ほんとに共感していたら、型通りのリアクションでなく、自然と自分なりの言葉やリアクションが出てくるはずで。
こういう風にするものだろう、と考えている時点で、相手のこと見てないじゃん?って思う。
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心にもないというほどでもないけども、とりあえず型通りに対応しているなっていうのだって、わかるものじゃない?
そういう適当感のある、きれいごとのうわっつらの言葉が出てくるくらいなら、反論されたりするほうがまだいいと思ってしまう。
少なくとも、反論するならそのときの話を聞いていたのだろうし、自分の意見言ってくる程度には向き合われている感じ。
(反論のようにして自分の話に持っていく人とかもいるから、そう言い切れない気もするけど。)
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傾聴にせよ共感にせよ、相手をよく見て聞いて相手の気持ちに寄り添って、というようなこととして、いいことだとされていると思うのだけど、こういう風にするものだというノウハウ的なのとともに広がるせいで、逆に相手を見て聞いてができていなくなってないか?と思う。
もちろん、ちゃんとできている人はできているんだけど。(けどそういう人は別にノウハウ的なの関係なくできていると思う。)
相手に向き合うってこうすることだ、というのでなく、向き合っていたらそのときそのときにどうするのか考えたり浮かんだりするものだと思うんだけど。
それなのに、なんでノウハウを求めマニュアル的にやろうとするのか不思議だし苦手でしょうがない。
いつもいつもなんだかなと思ってしまうところ。
(なんかこんな話前も書いたかもって気がしてきた...)