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感情を感じ切るということ。

先日、感情の行き場がなくなってしまって、しばらくすごくもやもやすごしていた。
すごくショックで悲しいことが、あまりにも事務的にぞんざいに(と感じた)扱われて、同時に驚きや怒りも出てきたり、ショックを受けたり悲しんだりする余裕も雰囲気もないまま、宙に浮いてしまった感じだった。

感情がそこに確かにあるはずなのに、出てこないもどかしさとかもやもや感と。
ゆっくり話せたら、同じように感じたはずの人たちとわかちあえたかもしれないのに、その機会も奪われてしまった気分とか。
そんなのを、どうしていいかわからないしどうにもできない感じが、ショックや悲しみとは別にしんどさになる感じ。

誰かと話したい、誰かに話したい、とも思ったけども、行き場がなくなってよくわからない感覚のままで話すのは、なんか違って。
しばらくそんな状態が続いて、落ち着かなくて、そんな状態で冷静に普通にいるのに違和感もあって。
ちょっとしたきっかけで、小さなショックと怒りから、もともとの感情がぶわっと出てきて、いったんあふれでた後に、話ができる感じになって、話したり、聞いてもらったりして、落ち着いた。

いったん行き場がなくなったのを、また感じることができたから、その感情のプロセスが終われたのだと思う。
悲しみは悲しみとして、ショックはショックとして、出して味わわないと消化できないのだと思う。

そんなプロセスを経て思ったのは、私はいつもそれと似たようなことを自分でしていたのではないかということだ。
しっかり感情を感じることをしないで、思考で処理しているのだと思う。
強制的に、感情を感じることを断ち切られた感じになったから気づいただけで、いつも、感情が深く届く前に、発生した感情をなだめたり落ち着かせたりしているかもしれない。

きっと私はいつも、その、まだ感じきってない味わってないまま、言葉にしてしまうことで落ち着けてしまっていたのではないかと思う。
話して、話すこと自体で落ち着いたり、共感したりされたりっていう、そんな感じで感情を味わっているつもりになっていたし。
それが自分のいやしのプロセスになってる気がしていた。
しんどいのとかを話して消化していると思っていたけど、感じ切らないまま消化させてる風味でいるのではないかと思った。

私は悲しい、私はつらい、などと感じた瞬間に、感じきるまえに言語化しはじめて話したり考えたりしていて、感じるのをそこで止めているかもしれない。
感情の起伏が乏しいと思っていたのだけど、起伏が現れるほどに感じていないだけかも。



感情があちこち彷徨ってしまったことで、今まで感じられていなかった感覚とかがあって、それはいい経験だったと思う。
中途半端に処理しないように、悲しいとかつらいとかショックとか、嬉しいとか楽しいとかも全部、ちゃんと感じて味わえるようにしたいと思う。

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