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死を意識することってある?

先日何人かで話していたときに、死を意識したりしないか?という話をしたり
40歳すぎたら死を意識するようにならないか、人生の半分すぎて残りを意識しないかと言っていたり。それでもまだ半分じゃん、死ぬまでまだまだじゃんって言う人もいたり。

そのときは、私は、離婚してひとりで子供育てるようになってから意識している、と話したのだけど、よく考えたら一周まわってもうあまり意識してないかもしれない。

死については、離婚して子供2人ひとりで育てるようになってから、ある意味ずっと意識していたと思う。
ひとりになって、その上で守るべきものがある状態で、守らなくてもいいようにすることがテーマになった。
私が死んでも、いきなり死んでしまっても、子供たちが生きていけるようにすること、というのが、私がやることだと思って。

めちゃくちゃしんどくてつかれてて、会社の帰りに電車に乗るときに、ふわっとホームからひっぱられる気分にもなったりしたこともあって、でもまだ子供がこの歳では(2歳1歳とか、その1,2年後とか)自力で助けを求められないし、なすすべもないだろうから、自分で何か動けるようになるまではがんばらないとと思った。

そういう、どうなったら自分が死んでも大丈夫だろうか、という点で、常になんとなく意識はある。

逆に、自分がやりたいことで、これをやりきってないから死ねない、みたいなことは思いつかない。
やってて楽しいこととか、これを伝えたいとか広めたいとか、そういうことはあるけど。
楽しいのは私が楽しいだけだし、伝えたい広めたいと思うものは、自分が生きてたら自分もやりたいけど、自分がいないならほかに誰かがやるだろうとも思う。

やってみたいこととか行きたいところとかはあって、できないままだったら残念には思うかもとは思うし。
目の前のことや関われる範囲で、よくしたいことはあるけど。
それをやりきらないと死にたくないと思えるほどの、好きなこととか自分が実現したいことというのがないのだと思う。
できなくても、やれたらよかったな、と思う程度な気がする。

そういう意味では、たいして死を意識していないかも。

子供たちが、私がいなくても生きられるというのには、
「助けを求められる」
「食べる寝るなどを自分で確保できる」
が最低限だと思っていて。

とりあえずまず保育園の年長か小学校低学年くらいで、電話かけられるように教えたし。
小学生のうちに、まずレンジでご飯解凍を、次にご飯を炊くのを、その次にお湯わかしたり何かゆでるのを、くらいできるようにして、材料おいておけば食べたいかんたんなものはつくれるくらいになった。
それができれば、少なくとも誰かが助けてくれるまで生きられるはずと思って。

今は2人とも、食べものは確保できるし(つくるのも買いに行くのも)、バイトなども自分でできるし、私以外にも相談できる誰かがいるし、困ることはあるだろうけど死ぬことはないだろう。

なので、一応今もう野垂れ死んでも、なんとかなる。
ただ、大学行きたいなら、大学出てる方がまだこの世の中ではあれこれ有利だとは思うので、あと4年半はがんばってから野垂れ死ぬかなぁとは思うけど。

そうやって、子供たちが死なないようにって言う意味では、ずっと死を意識してきたし、でももう気にしなくて大丈夫とも思う。

守りたいものや守るべきものがあるから、死が怖いのだろうと思う。
守らなくても大丈夫になったら、私は死をどう考えるのか?
今は、守らなくて大丈夫ならもう意識しないようにも思うけど、自分のために何かやりたくなったりしてまた変わるのかもしれない。

ほかの人はどんなとき、何をきっかけに考えるのだろうと知りたい気もする。
きっとほんとにそれぞれ違うのだろうと思う。

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