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言葉を知っていたって伝わるわけではない。

社内でだいぶ前からアジャイル開発やアジャイル的な組織づくりに取り組んできたという方と話したとき。

これまでと違うやり方は、なかなかよさがわかってもらえなかったり、理想論とか、できる人がやってるからできるだけって言われたりとかしませんか、と聞いてみたら、
「確かにそういうことは多いし、初期にはほんと大変だったけど、最近は、アジャイル開発とか心理的安全性とか、言葉が知られてきたからだいぶわかってもらいやすくなった」
と言っていた。

確かにそうだとは思うけど。20年も前だったら、全く言葉そのものが知られてなかったと思うし。
でも、言葉さえ知られていたらつうじるっていうものでもない。

5,6年前、私が組織開発も心理的安全性という言葉もまだ知らなかったころ、仕事をうまくまわすために「もっとお互い話すようにしよう」と言ってもつうじなかった。報連相的な「話す」ならわかってもらえるけど、率直に意見が言い合えるチームに、っていうのはわかってもらえなかったと思う。
その後、組織開発とか心理的安全性とかの言葉を知っても、知ってる人がいなければ使ってもわからないから、うまく伝えることができなかった。

今でも組織開発という言葉はなかなかつうじないけど、心理的安全性のための対話という話はかなりつうじるようになった。
そのために対話の場をつくりたい、というのが通りやすくなっている。

でもなぁ、と思うのは、心理的安全性とか対話とかいう言葉自体はつうじるようになったけど、中身がつうじてない気がすることだ。
逆に、言葉としてつうじて、「知ってる」「わかってる」って思われてしまうことで、しっかり伝えられるチャンスは失っているように思う。
それでも、何も聞く気も持たれないよりはいいのだけど。

「なんでも話していいって言ってるのに全然話してくれない」
「対話の場をつくっても、話すの苦手な人は話したくないよね」
「話せる人は話せるけど、苦手な人は無理だよね」
「誰もが意見を言えるとか理想論で、一部の人しかどうせできない」
というようなことは、「心理的安全性」がわかっていたら、出てこない言葉でないかな?って思ってしまう。

話してくれないのとか、話せないのとか、そこがその人にとっては安全ではないからだ。
話すの苦手って言ったって、きっと、たとえば家族とか仲いい友人とかなら話せたりするはずで、そういう、ここでなら話せるけどって思えるような信頼関係がないからだ。
ほんとにここでなら話せるって思ったら、誰だって話せるはずなのだ。

そういうことをただ言ってもだめだし、理想論って言われてしまう。
間違ってるよ、と言いたいわけではないし、いきなりそんな理想論でなくとりあえず話す場があるだけでもいいっていう意見もわからなくはないけど、やっぱり、言葉の示すところの一部だけで話されてる感じにはもやっとしてしまう。
伝えたいよさが伝わらない感じにがっかりする。

伝えきれてないのは自分が体現できていなくて言葉だけで説明しようとするからだともいえるのだけど。そもそも私自身まだまだ学ぶことが多いっていうのもあるけど。
言葉があるから、ないから、っていう話でなく、体感したらわかるっていうのもあるしね。
伝わらないと嘆くのでなくて、言葉だけでもつうじるのをうまく使って伝えていけたらいいなと思う。

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