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「話せていない」と思うとき。

話をしていて、答えのないことについて正しいかどうかを聞かれると困ってしまうのだけど。

正しいかどうかで話されるとき、「話している」感じにならなくて、もどかしくなることが多い。
やりとりはしているのだけど「話せていない」と思ってしまう。

話そうとしても、暖簾に腕押しというか、キャッチボールになってないというか、そんな感じでつかれてしまう。
それって、ボールを投げ合って受け取り合っていなくてすれ違ってばかりだからかなぁと思っていたのだけど、それはそうなんだけど、「正しいかどうか」で判断されるときというのも大きい気がした。

「正しいかどうか」を判断するときに、ルールとか人の意見とかをもとに決めようとする人(というか決めなくて委ねようとする人)だと、その人と話してる感じにならないのだ。
その人が見えてこなくて、その人との対話でなくて、その人がひっぱってきた何かを聞かせられるだけになってしまう。
引用先とは対話できないので、一方的に引用した考えやルールを与えられている感じがしてしまう。

話しようがないのに、話した形をとることで話して合意した風になったりするのがもやっとするしつかれるのだと思う。

以前、話がまったくできないなぁと思うことがあって、そのときの相手は、自分の意見が強い人だった。
自分の意見が正しくて絶対で、それに賛成するかしないか、賛成でないなら意見を変えれるかどうか、意見が違うままで変わることもないなら全否定。
違う意見を否定するだけでなく、違う考えを持つ人自身を否定する。
もしくは同じ意見になるまで説得する。

それは、その人にとっては「話している」ことだったのだろうと思うけど、私にとっては「話せない」と同じだった。
結論は決められていて、ディスカッションできることもなく、すり合わせる余地もない。

話す形をとっていても話ができない、というのは、しんどかったし、それで話したことになるのもしんどかった。

両者のしんどさはちょっと違うけども、ふと思い出すくらいには似ていて、それはやっぱり、対話ができていないことと、それなのに対話した風になっていることだなぁと思う。

歩み寄りたくても、すり合わせしたくても、そうしようがないくらいの、ベクトルが違うどころか異空間にいるくらいの、関われない感じ。

対話とか関係性とかについての考え方や、それぞれの価値観の違いなだけなのだろうし、違うこと自体はしかたないと思うし、自分の価値観で相手と合わなくてへこんだりしんどくなったりするなんて勝手だよなぁとも思うのだけど、それでもつかれるししんどいんだよな。

それで結局、そこまで話せない感が大きいときには、向き合うことを諦めてしまうのだけど、ほんとはどうするのがいいんだろうな?と思う。
かんたんに逃げることもしたくないけど、しんどくなりすぎてまでがんばれないし、そこまでするところではないとも思うし、しんどいと判断誤りまくるので安全でいたいとも思う。

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