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#105 アー ユゥ カザフスタン?

※この文章は2013年〜2015年の770日間の旅の記憶を綴ったものです

なんとなく、釈然としない気持ちのままトルコを去ってから、お隣の国ジョージアへやって来た。

最初に訪れたバトゥミは黒海に臨むリゾートとして有名な街。ビーチを前に久しぶりに浮かれた気持ちになれるかと期待して来たんだけれど、わたしがいた数日間は天気がイマイチだったことや、元もと海派じゃなく断然山派のわたしだから(そんなことはとうの昔にわかっていた!)、それほど盛り上がることも無く。
この街に来た一番の目的だったイランビザの申請でも撃沈してしまったため、わりと暗い気持ちのまま、次の目的地への移動となった。

次に訪れたメスティアは、打って変わって、この旅の後半に見た自然の景色の中でも特に印象深いものになった。この辺りは「ヨーロッパ最後の秘境」なんて言われていて、まぁ、そのわりにはツーリストが結構いるんだけれど、それでも、たどり着くまでの悪路っぷりはなかなか上等なものだった。
メスティア周辺はトレッキング・ルートの宝庫で、数日かけて周辺の村へ向かうものから、日帰りできるものまでバラエティー豊富。滞在中は、日帰りで往復7~8時間歩いて氷河を見に行ったり、近くにあるそれほど高くない山に登ったり。懐かしいパタゴニアのエル・チャルテンを思い出すような、わたしにとっては、自然を思いっきり満喫するのに理想的な場所だった。

そしてやって来たのはトビリシ
首都だけあって、そこそこ大きく都会でゴミゴミしているんだけれど、わたしにとっては、なぜかとてつもなく居心地が良く、懐かしさを感じる街だった。
ジョージアの人々は、わたし達東アジア人から見ると完全に西洋人だし、街中の風景は旧ソ連を彷彿とさせる今にも崩れ落ちそうな古い建物がまだ多くあったりして、一見「懐かしさ」に繋がる要素は見当たらない。けれど今この旅の最終地タイのバンコクに戻って来て思うのは、トビリシの街中の緑のあり方や雰囲気が、どことなく東南アジアの街に似ていたからなのかもしれない。

ジプシーの女の子に絡まれたり、少年の痴漢にあったり! アジア人が圧倒的に少ないため、すれ違いざまにガッと凝視されたことも何度もあったし(それでもトルコのような思いをすることはなかった)、毎日の暑さにも相当閉口した。にもかかわらず、思い出すたび、懐かしい親しみと、素直に「また訪れたい」と感じる街なのだ。

この街では、ひとつの特別な出会いがあったからかもしれない。
旧市街を見渡すような高台に位置するナリカラ要塞に登った時、ウクライナ人のアレクセイとアゼルバイジャン人のザウルという二人組に出会った。この要塞、一番高い所にある展望台へ登る時の足場がかなり悪いのだけど、そこへ女一人で来ていたわたしを心配してくれて「降りる時には一緒に行こう」「You need our help!」と言って手を貸してくれた。そのまま近くのボタニカル・ガーデンを一緒に見に行き(この時二人はビールを持ち込もうとして管理人に止められ、入り口のベンチでラッパ飲み…)、夜の噴水ショーを一緒に眺め、「ヒンカリ・レストラン」でジョージア名物のヒンカリをたらふく堪能した。

国籍は違うけれど、二人は「お祖母さん同士が姉妹」と言っていたから、はとこ(またいとこ)という関係らしい。どちらも旧ソ連の国なので、二人の間の共通語はロシア語。そこにわたしが加わると英語に変わる。けれどわたし達三人の英語はみなドッコイどっこいのレベルだったので、表現はいつも非常にシンプル。彼らは言葉に詰まると、スマホの翻訳アプリを取り出してカンペにしていた。

よく「言葉は通じなくてもコミュニケーションは成り立つ」と言われるけれど、わたしにとっては、やっぱり自分の語彙不足に大きな不便(と苦痛)を感じることは、今でも圧倒的に多い。けれど彼らと一緒に話していると「あ~…う~…」としばしば言葉に詰まりながらも、お互いにシンプルな表現で伝え合えたこと、何より彼らのユーモアの感覚がわたしのツボにハマっていたのが、彼らとの時間を心軽やかに楽しめた理由かもしれない。

このユーモアの絶妙感を文章で伝えるのはなかなか難しいのだけれど。
たとえばある日一緒に街を歩いていると、通りに座っていたおばあさんがザウルに何かを尋ねると、ザウルがわたしの方を見ながら笑顔で答えていた。通り過ぎてから「何を聞かれたの?」と尋ねると、「あのおばあちゃん、Makiのことを『彼女はカザフスタン人かい?』」と聞いてきたんだよ」と。
以来、わたしが言葉に詰まったりおかしなことを言うと、二人から「Are you Kazakhstan?」とか「Because you are Kazakhstan!」というツッコミがすかさず入る。わたしも負けずに応酬していたので、これが我ら三人の間の流行語になって、大いに笑い合った。ちなみに「Kazakhstan」は国名であって(カザフ人の国あるいはカザフ人の多い所という意味らしい)、「カザフスタン人」という場合は「Kazakh」と言うのが正しいのだけれど。

ちょっと話はズレるけれど、所変われば常識も変わるもの。
世界中あらゆる所で「チーナ?」「チーノ!」と呼びかけられることはしょっちゅうあった。これは地球上の人口比からいって、東アジア系の顔立ち = 中国人と思われても、ある意味仕方がない部分はあると思う。心情的にそれを受け入れられるかどうかは別として。
最近では「Japanese?」よりも「Korean?」が先に出てくる国も多かった。ところが、アジア人を見かけることが圧倒的に少なかったコーカサスの国々に来てからは、この後も何度か「カザフスタから来たの?」と聞かれたことがあったから、この辺りでは、東アジア系の顔立ち = カザフスタン人という認識は、かなり通じる常識なのかもしれない。

5日ほどトビリシに滞在してから、アゼルバイジャンに帰って行った彼ら(この時ウクライナ人のアレクセイは一ヶ月の休暇中で、アゼルバイジャンのザウルの家に滞在中。トビリシへは小旅行で来ていた)。陽気に出発して行った彼らを見送った夜「一緒に行こうよ!」とか「いつアゼルバイジャンに来る?」と何度も聞かれたので、その頃苦戦していたイラン・ビザを諦めて、急遽アゼルバイじゃに行ってみることにした。

トビリシを上回る刺すような暑さのバクーだったけれど、初めて目にしたカスピ海で、これまた初めて水着で泳いでみたり(そう、この旅の中で何度も美しい海を目にしてきたけれど、泳ぐのはこれが初めてだったのだ!)、ルールを教えてもらいながら対戦して初勝利をおさめたバッグ・ギャモン。
あんなに行ってみたかったイランは、いつの間にかわたしの中で「またいつか訪れる機会はあるさ」という思いに変わっていた。

ウクライナへのフライトがトビリシの空港からだというアレクセイと一緒に、夜行列車に乗って再びトビリシまでやって来た。この後アルメニアに行くつもりだったわたしは、国境を接しているにもかかわらず、現在紛争関係にあるアゼルバイジャンからアルメニアに入国することはできないので、トビリシに戻ってくる必要があったから。
早朝トビリシに着いた後、わたしが一泊するつもりで予約していた宿まで一緒に来てくれて、荷物を運んでくれたアレクセイは、わたしが無事チェック・インしたのを見届けると「You have good rest!」と言って頬にキスを残し、すぐに背中を向けて去って行った。キエフまでのフライトは夜の便だと言っていたから、今日半日まだ時間があることはわかっていたのに。

後からFacebookのメッセージで「I’m sorry, but I didn’t like goodbye」と言ってきた彼の気持ちを、わたしは尊重するしか無かった。数日間、楽しい時間を共有した後で、この時も喪失感は大きかったけれど、今は彼の行動が正しかったことがよくわかる。わたしだって最後まで笑顔で見送れる自信は無かったら。

なぜか懐かしくて居心地が良かったトビリシの街角
なぜか懐かしくて居心地が良かったトビリシの街角
なぜか懐かしくて居心地が良かったトビリシの街角
なぜか懐かしくて居心地が良かったトビリシの街角
Sioni教会で祈る女性
小さなカフェで。笑顔で迎えてくれた女性
"I want to marry HIM" にグッときた
きらびやかなガラクタが並ぶ骨董市
小高い丘の上にあるナリカラ要塞
ナリカラ要塞のてっぺんで出会ったアレクセイとザウル
アゼルバイジャンのバクーへ帰っていく二人を見送った時。即興で歌を歌ってくれた

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