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短編集、詩集を読むとか

 最近長編小説だけでなく、様々な本を読むようになった。特に、短編小説と詩集。この二つを読み始めたきっかけは、細かい時間に軽い気持ちで本を読みたかったらです。長編小説を読み始めるにはそれなりの決心みたいなものが必要。それと忍耐力。ですが、短編集や詩集ならふと手に取ることができます。スマートフォンを触るみたいに。

 そんな調子で読み始めたのですが、最初は何かつかみきれない部分があるなと思いました。結局、何が言いたいんだろう?無粋なことまで考える始末です。特に詩は難解なものも多くありました。意味がよくわからなかったり。

 しかし、いくつかの作品を読み進めていくにつれて、こんな感じで読むと面白いなという自分なりの楽しみ方(味わい方?)がわかってきました。正確に分かったというわけではないです。自分なりのやり方っぽいものがうにゃうにゃと地面から頭を出してるみたいな状況ですが、だからこそまとめてみます。

最後まで読むということ
 めちゃくちゃ当たり前なことみたいだけど、詩集とか短編集も最後まで読んだ方が面白い気がします。短編集を開いて最初にひとつめの短編を読んだときよりも、全編読んでみてから振り返ったその物語を振り返った時の方がなんとなく腑に落ちている気がします。詩もそうです。

 一冊読み通すことによって作者の人間性ぽいものが少しだけ見えてきます。ぽいものです。その、人間の背景みたいなものを感じながら最初の一篇について考えると、より身に染みてくる気がするんです。なので最初の一篇で立ち止まりすぎず、読んでみるのもいいかもしれません。

 そもそも長編小説なら一冊を読み通してから振り返るんです。まあ、短編とか詩もひとつの作品なのでひとつ読み終えたら振り返るのは当然なんですが、手掛かりが少ないので物がよく見えてこないんです。というか、書かれようとしているものがすぐに見えてくるような物語とか詩はよいものであるとは言えないんじゃないでしょうか。

 ひとつの作品を読み終えたところでじっくりと、背もたれを使って脱力しながら考えるのはもちろん良いことですが、短編とか詩集はどちらかというとはやめに先へ進んだ方がいい気がするんです。一度読み通すことで、何かしら作者のリズムみたいなものが感じられるからです。

 私たちは、作品に対して作者による完璧な支配みたいなものを求めてしまうというか、それが当たり前だと思ってしまうんですが、実はもっと自由なものなんじゃないかなと思います。考えすぎていないというか、それが成り立つ段階に偶然性が潜んでいるのではないかと思います。というか、それが大方を占めているかもしれません。ある日の作者は少しお腹が痛かったり、恋人にひどいことを言われて落ち込んでいたり。

 短編集や詩集は、長編に比べて短い時間で作られます。なのでそこに潜む振れ幅が大きいんじゃないかと思います。だから、これはいいなと思ったり、よくわからんなと思ったり。

 ですが、一冊読み通すことで、基本的なリズムみたいなものがつかめるんじゃないかと思います。作品群を通して存在するなにかが。それは言葉にできないものだと思います。言葉にできないものを言葉で表現する。舌が絡まりそうですね。

 リズム、流れ。この世界には言葉で表せないものがたくさんあります。(名前がついていないから存在すら認識できなかったり)そういうものを知ろうとするのは、網で空気を捕まえることみたいな気がしますがなんとなく面白いです。

 そういうことを考えるのに短編集や詩集は向いているかもしれません。

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