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ジェネレーションギャップを楽しみたい

「自分の子供時代には、こういうことなかったな。」

小学5年と1年の子供たちと関わっていると、そう思うことは多い。

最近そう感じたのは、お正月に家族で初詣に行き、境内で獅子舞が踊っていることに恐怖した次男の必死の説得によって家族全員でそこでの参拝を諦めて獅子舞がいない神社に移動したとき。

もっと小さい子ならともかく、小1なら目をつむって前を通りすぎることくらいできるでしょ…

とは思いながらも(実際にそう説得もした)、それも絶対にヤダと言い張る次男の意見を家族全員で尊重し、車に乗って別の神社にいった。

怖いという気持ちの程度は多少は関係しているものの、自分が子供のころなら、怖いとゴネ続けるうちに父にカミナリを落とされ、泣きながら獅子舞の前を通り、そのままお参りをして終わりだったろうな…と思うのだ。
そしておそらく、その経験を経て獅子舞への恐怖をある程度は克服しただろう。

嫌いなこと、やりたくないこと、苦手なこと、それらを「皆んながやっているから・できるから、やる」、というかそもそも「やらない」という選択肢を持たないことで、いろいろなことを乗り越え克服する、それが40代の私の時代のスタンダードだったように思う。

我が子は、嫌なこと、やりたくないこと、苦手なことを1ミリの忖度もなく「NO」と言う。
子供に限らず、Z世代のように言われる若い世代のひとたちを見ても、自身が感じる快不快の感情を尊重し、周りがどうこうとか先輩がどうこうとか関係なくはっきり主張する場面をよく見かける。

どんな労働環境でも忍び難きを忍びの雑草魂で生きてきた我ら氷河期世代の中年としてはその感覚にギャップを感じる。

「近頃の若い人は・・・」だ。
でも私はその後に「いいな。私も試してみよう」と思っていたい。思い続けていたい。

さまざまな価値観を理解しようとすることで柔軟性を持ち続けられるし、柔軟性があれば年齢関係なく成長し続けることができる。

なにより、子供たちが生きていく世界は、頑張りどきや葛藤を克服するタイミングを自分で選べる選択できる社会であってほしいし、誰もが自分にとって心地よい環境づくりができる社会であってほしい。

雑草だって、そんな社会のほうがたぶん楽しい。


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