ゴジラの夢2.山羊の記憶
この世で最初の記憶は大きな白いヤギである。市場へ買い物に行く道すじにいつもいて草を喰っていた。ヤギは真っ白で、見上げるように大きかった。私はこわくて、母親の手にしがみつきながら通ったものだ。
小学生になってから叔父さんの勤める大学の構内で、つながれて草を喰っているヤギを見た。
「これ、こどものヤギ?」
「おとなだよ」
と叔父さんが言った。
そういえばひげも角もあるからおとなにはちがいなかったが、そのヤギの背は私の胸くらいまでしかなかった。記憶の中のヤギは象のように巨大だったのに。いぶかりながら、ヤギの首すじをおっかなびっくりなでてみた。ヤギは別に怒った様子もなく、私の手に鼻づらをこすりつけてきた。そこらの草をむしって差し出すと、ヤギは私の手から草を食べた。ヤギがこわくないので私は拍子抜けした。そこらにはシロツメクサがいっぱい生えていたので、ヤギのことは忘れて花環をつくっていたら、いきなりどしんとお尻に頭突きをくらった。肝をつぶしてふりかえると、ヤギは私の手から花環をひったくってむしゃむしゃ食べはじめた。
驚きがおさまると笑いがとまらなかった。ヤギというのは、小さい私がこわがっただけのことはある、覇気のある動物だった。
原っぱのある路地から表通りにでたT字路のところにロータリーがあった。その上には枯れかけた灌木が少しあって草がはえていた。私の記憶のヤギはこのロータリーの上で、商店街の夕暮れの雑踏の中で草を喰っていた。
しかし母親はそれはちがうという。ヤギはその町に越してくる前に住んでいた千葉のいなか道にいたのだという。すると私は二つになるかならぬかだったはずだ。ヤギが巨大にみえたのも無理はなかった。
ロータリーの正面には、高田浩吉の時代劇ばかりやっている映画館があった。その横の路地をはいると、さしかけ小屋のような焼き芋屋さんのほかには商店もなく、ほこりにまみれた曇りガラスの引き戸をたて切った木造の民家や、どこかの工場のコンクリート塀がながながと続く。四つ辻に交番があって、その先が私の知っている世界だった。
その路地は、砂利に刻まれたわだちのあとからすると車一台がやっと通れる狭い道だったが、私には広々とした通りに見えた。
私の家は四畳半と三畳しかない木造セメン瓦のちっぽけな家で、原っぱの南東の角にぽつんと建っていた。もとは塀すらなくて、原っぱを渡ってくる風に吹きさらしになっていたのだが、二-三度空き巣に入られてから板塀をめぐらした。狭い庭に木の一本もなかった。便所の裏にはドクダミがびっしりはえていた。のちにこの庭に丸木を立てて、父親がぶらんこを作ってくれた。もっともぶらんこそのものは荒縄をぶらさげただけだから、長く乗るとお尻が痛かった。あとはやはり丸木を立てて、大きな物干しがあるだけである。
私はこの家に二歳半から小学校一年の終わりまでを暮らした。その後は転々として、十六歳のときに父親がやっと家を買うまで、ひとつの家に二-三年づつしか暮らしていない。この家が私のふるさとである。
その家に暮らしはじめたころ、向かいの家にはくず屋の親子が住んでいた。
くず屋のおじさんはなんだか真っ黒い姿をして、毎日リヤカーを引いて仕事に出ていった。トニー谷のようなひげをはやして、眼鏡をかけていたように思う。子供の方は私と同い年ぐらいの女の子だったが、この子の身なりが変わっていた。膝までの丈の赤い着物とへこ帯だった。その頃お盆と正月は別にして普段着に着物を着ている子供はいなかったが、珍しいのはそのことではない。その着物がみごとにぼろぼろだったのだ。つぎはぎなどというのではない、袖などはどうやって身頃にくっついているのかわからないほど、まんべんなく細かに裂けてひらひらしており、「海松のごとわわけさがれる」という表現がそのままあてはまるのである。その子は赤茶けた髪をおかっぱにして、顔は白かったが手足は垢染みて真っ黒だった。足ははだしだった。
私はその子と遊んではいけないと母親に言われていたが、それでもよく遊んだ。二人してしゃがんで地面に絵を描いて遊んでいたときふと見ると、その子はズロースさえはいていないのだった。私はそういう姿をみて、かわいそうとは思わなかった。ただ不思議だった。
ある日その子が真新しい下駄をはいていた。よほどうれしいらしく、わけもなく走りまわってカタカタ音をたてていた。
「おばちゃん、これ買ってもらったんだよ」
と、私の母親の前にきて下駄をぬいでみせびらかした。赤い鼻緒の白木の下駄だったが、すでにその子の足の形が真っ黒についていた。
「あらそう、よかったわね」
私は母親のその声音に嘘を感じた。母親はいつもその子と遊んではいけないと言っていた。それなのにつくったようなやさしい声でそう言ったのだ。そのとき母親の腕には、まだ首もすわらない妹が抱かれていたから、私は三つかそこらだったはずだ。それなのに自分の母親が心にもないことをいうのがわかったのである。
あとで私はくず屋の子のことを夢のように思い出して、母親にきいてみた。
くず屋にはちゃんとおかみさんがいたそうである。けっこうきちんとした身なりをしてパーマもちゃんとかけて、ハンドバッグをもって出かけていたという。しかしあの子はままっ子だったそうで、だからかまってやらずにあんなかっこうをさせていたらしいと。またその人はときどき頭がおかしくなって、夜中に大きな声であらぬことをしゃべりちらしながら、前の道を行ったり来たりしていたそうだ。
その時ようやく私はあの子のことを、かわいそうだったなと思った。
註:山上憶良:貧窮問答歌「綿もなき布肩衣の 海松のごとわわけ下がれる」
くず屋の親子がいなくなったあとに、戦争未亡人だという品のいい初老の女の人が越してきた。ローはこの家の犬である。この家にその後お嫁さんが来た。お嫁さんが来るからにはこの人の息子もいっしょにいたはずだが、私はその姿を見たことがない。勤め人だったのだろう。お嫁さんは細面で、パーマの髪をふわっとさせたきれいな人だった。私はあがりこんで、お嫁入り道具の一つであるフランス人形をみせてもらった。バレエのチュチュを着て爪先立ちをした人形だった。親たちはこの家とはそんなにつきあいはなかったが、私はそのころどこの家にでもあがりこんでいたらしい。
同じころだったか、この戦争未亡人の家の後ろ半分に、もう一家族が住むために越してきた。その家は戦後の安普請の私の家とはちがい、幾間もある大きな家だった。それを二つに区切って二家族が借りていたらしい。あとから来た人たちは木村さんという、学校の先生の一家だった。もう小学生で、私にとってはおとなのように見える女の子が二人いて、末っ子はただしちゃんという男の子だった。私はこの子と友だちになり、よく家に遊びに行った。
ただしちゃんの家は、南向きに格子戸の玄関とそこからまっすぐ台所まで続く暗い廊下があり、また南側には床の間のある広い座敷があった。この座敷は私には宝物殿のように見えた。まず大きな地球儀があった。ただしちゃんがそれをくるくるまわしながら、「これが太平洋、これがアメリカ」などと教えてくれた。大きなどっしりした書き物机があって、真っ黒な分厚い本がたくさんあった。これはお父さんの机なのだそうだ。床の間には掛け軸や坐った牛の置物などがあった。また、おかっぱ頭をして着物を着た人形が坐っていた。これはお姉さんの人形だから、私はさわりたくてもさわれなかった。ところがある日、ただしちゃんが突然、
「この人形のなか、どうなってるんだろうな」
と言い出し、お姉さんがいないのをみすまして人形の着物を脱がせ始めた。私は息をつめて見守っていたが、着物のなかの人形の体は、布でつくって綿をつめた胴体に土でできた手足がついているだけだった。ただしちゃんも私もがっかりした。ところが、着物を元通り着せることができないので困った。そこへお母さんが入ってきて、笑いながらただしちゃんを叱り、お姉さんが帰ってこないうちに形を元通りにしてくれた。ただしちゃんのお母さんは、パーマのない髪の毛を首すじでおだんごにし、着物をきて割烹着をかけていた。肩たたきの歌のさし絵にあるようなお母さんだった。
この座敷にはかぎの手に広縁がめぐっていた。昔は庭があったのだろう、生け垣の一部と築山のなごりらしい地面のでっぱりがあって、柿の木が一本だけ生えていた。いまではそれは庭なんてものではなくて、白茶けた地面がむき出しになった空き地で、隣との境の垣もなく、道路とも溝で境されているだけだった。空き地は子供たちが遊ぶので踏み固められ、草も生えなかった。柿の木は、子供たちがぶらさがって遊ぶので枝もみんな折れて実もならなかった。この柿の木のある小山を城に見立てて、近所の子たちがちゃんばらごっこをしたものだ。
私とただしちゃんは、この小山でよく「おやまの大将」ごっこをした。ただしちゃんは私よりずいぶん大きかったので、力でかなうはずはなかったが、私がむきになってかかってゆくとときどきわざと負けてくれて、おおげさに小山から転がり落ちた。
ある日、ただしちゃんがお姉さんとけんかをして泣いていたので私はびっくりした。大きいのに泣くなんてと思った。ただしちゃんは泣いているのを私に見られたのが恥ずかしかったのか、その後二-三日は遊んでくれなかった。
ただしちゃんは幼稚園に行っていた。その近辺の子供たちで、幼稚園に行く子はほとんどいなかった。紺のうわっぱりを着て、お弁当をいれるバッグを肩から斜めにかけて、
「いってきまーす」と毎朝ただしちゃんが出かけて行くのを見て、私はようちえんて何だろうと思っていた。
あとで、ただしちゃんが私より二つぐらいしか年上でなく、ようやく幼稚園に行くような歳であったことに思い当たって、不思議な気がした。ただしちゃんは私に対して大きな兄さんのようにふるまっていたのだから。遊びのときには手加減してくれ、私がなにか言い張ればゆずってくれた。
昔のアルバムを開くと、いがぐり頭の目のきょろっとした男の子が、口をとんがらかして写っている。
ただしちゃんの家の北隣りの小さな家には、やはり二家族が住んでいた。私の家にはかろうじて玄関があったが、この家はぬれ縁のついたガタピシのガラス戸が出入口になっていた。この家の末っ子のきみえちゃんと私はよく遊んだので、何度もあがりこんだが、ござを敷いた板の間と、建具もなくひと続きになっている四畳半がその家の間取りのすべてだった。板の間に勉強机らしいものがひとつあるだけで、この家にはおもちゃも本もなにもなかった。奥には向こうの部屋に続くふすまがあるようだったが、たんすやたたんで積み重ねたふとんなどでふさがれていた。これだけのところに、きみえちゃんは両親とお姉さんとお兄さんと、五人家族で暮らしていたのだ。
しかしこの家は入口のガラス戸が大きいので明るかった。背中あわせに住んでいるもう一家族の部屋は、台所になっている土間と板の間にござを敷いた一部屋きりで、土間の入口以外には窓もないため、昼間でも真っ暗だった。この一部屋に、子供が何人も折り重なるようにして寝ているのだった。お母さんという人は髪をふり乱し、太った胸におんぶひもをくいこませて、暗い台所でいつも立ち働いていたが、子供のように小さい人だった。おでこの清ちゃんは、この家の何人きょうだいの何番目だったのか。いつもあおばなを垂らし、なんの遊びでも不器用なので、みんなにばかにされていた。
ところできみえちゃんの一家は泥棒の一家なのだといわれていた。お母さんはきみえちゃんにそっくりのはれぼったい目をして、いつも井戸端にしゃがんでいた。この家には台所がないので、煮炊きも洗い物もすべて井戸端でするしかなかったのだろう。この人に、木村さんの家ではよく洗濯物を盗まれたという。
「靴下がなくなって二-三日してひょっと見たら、自分とこの軒先に堂々と干してるんですものね。あきれちゃうわ、ああ堂々とされると、うちのじゃないでしょうかなんていうわけにもいかないしねえ」
とただしちゃんのお母さんが私の母親にこぼしていた。
お父さんという人は昼間から家にいたり、時には何ヵ月も姿が見えなかったりした。そういう時は牢屋にはいっているのだ、とみんながいった。兄さんはきみえちゃんとお母さんによく似ていて、もう小学校の高学年だと思うが、白いトレパンをはいて自転車を乗り回していた。この自転車も盗んだものなのだと人々は言った。お姉さんはやす子ちゃんといい、きょうだいのなかでひとりだけちがう顔をしていた。めがねをかけていたが、目が大きくて二重で、えくぼがあって美人だった。もう中学生だったが、学校へ行こうとしないので、何度も先生がたずねてきていた。
ある日、やす子ちゃんが映画につれていってくれるというので私は喜んだ。もちろんつき添いさえいれば私は無料だった。親にちゃんと断わっていったのかどうか記憶がない。しかし映画館の前でながながと誰かと待ち合わせる羽目になった。やす子ちゃんも未成年だから、誰かもっと年上の人を待っていたものらしい。誰だったのかよくわからない。とにかくやっとその人たちがやってきて映画館に入れることになったが、なんの映画やら、まるで子供向きではなかった。しかし動き回る画面をみるだけで私は退屈しなかった。そのうちおなかがすいた。椅子が固いのでお尻が痛くなった。やす子ちゃんは私にキャラメルをあてがい、便所に連れていって窓から外を見せ、
「ほら、まだ明るいでしょ」
といった。なぜ明るいと帰ってはいけないのか私にはわからなかったが、しかたなく座席にもどって画面をみた。何回同じシーンを見たことだろう。その間やす子ちゃんと連れ(学生服の男の子たちだったような気がする)も、退屈しなかったのだろうか。彼らは音をたてていろいろお菓子を食べながら、なにかおしゃべりばかりしていたと思う。
そのあとなにがあったのかおぼえていない。私は夜の道を、やさしい声のお兄さんに手を引かれて家まで歩いて帰ったのだ。
「この道なの?」とその人がきき、
「うん、ここをずうっと行くの」などと答えていたように思う。
私は映画館の終演後、置きざりにされて泣いていたという。それをどこかの大学生のお兄さんが家までつれてきてくれたのだ。帰ると両親が大騒ぎをした。学生さんに何度もお礼をいった。そのあとお巡りさんまでが来た。親は心配して交番に届けていたのだ。
「お騒がせしてすみません」
「いえいえ、よかったですねえ」
お巡りさんは玄関で敬礼をして帰っていった。
そんな目に合わされたあと、私はさすがにやす子ちゃんには近づかなかったが、きみえちゃんとはかわらずに遊んだ。きみえちゃんは私とはだいぶ歳が離れていたが、女の子の遊びをたくさん教えてくれた。どこの家の子も「あの子と遊んではいけない」と言われていたので、きみえちゃんは遊び相手がいなかったのだ。私の母親はといえばとっくにあきらめていて、「あの子を家にあがらせてはいけない、外で遊びなさい」とだけ言っていた。母親がそう言っていることは、私のきみえちゃんに対する一つの秘密だった。たいていは私がきみえちゃんの家に遊びに行っていたが、たまにきみえちゃんが、
「まきこちゃん、遊ぼ」
と呼びにくることがあった。
「はあい」
と答えて外にかけだして行くとき、私の胸はちょっぴり痛んだ。家にあがってもらうことは親愛のひとつの表現であり、友だちのならわしだったからだ。私のほうが年中あがりこんでいるのに、きみえちゃんを一度も家にあげないことは不自然だった。しかしきみえちゃんはなんとも思っていないようだった。どの家にもあがらせてもらったことがなかったのだろう。
あるとき、きみえちゃんがおもてのぬれ縁に立って泣いていた。
「いま泣いたカラスがもう笑った」
と私はからかった。
「ばかっ」
ときみえちゃんは言ってまたわっと泣き出した。私はびっくりした。
あとで知ったのだが、お父さんがお米屋さんに泥棒に入って捕まったのだった。お母さんも呼び出されて、きみえちゃんはそのとき家にひとり取り残されていたのだ。私はわるいことをしたなとあとで思った。
その後もその一家は何事もなくそこで暮らしていた。私もだんだん世界が広くなったので、きみえちゃんと遊ぶことも少なくなったが、ときどき連れ立って学校へ行った。私が一年生のとききみえちゃんはもう六年生だったが、背丈は私よりたいして高くなかった。もう長いスカートをはいて、茶色っぽい髪は腰まで垂れていた。歩きながら彼女が、友だちづきあいとはというようなことを何かしみじみと話し、私はいっぱし相槌を打ちながらきいていたような覚えがある。
やす子ちゃんはそのころ、もう家にもよりつかなくなっていた。そしてある日、友だちと埼玉県まで遠征して、どこかの家の便所の窓から忍びこもうとするところを捕まったのだった。同じ手口の何件もの犯行が彼らのものと推定され、二人ともまだ十五歳なのに、いっぱしの空き巣の常習犯だったことから、仮名ではあったが新聞にまで載った。うちに何度か入った空き巣も、彼らだったにちがいないと母親は憤っていた。
でも私は、きみえちゃんだけはどろぼうではないと信じていたし、いまもそう信じている。
木村さんの家の南隣りにも二家族が住んでいた。道路に面した玄関の前には鉄平石がしきつめられ、いつも打ち水がしてあった。玄関の両脇の二部屋に住んでいたのは初老の夫婦だった。おばさんは白髪まじりの髪をひっつめにして割烹着をかけて、掃除をしたり縫いものをしたり、いつも忙しそうだった。おじさんもごま塩頭で、きちんとコートを着て出かけるからには勤め人なのだろうが、それにしてはしょっちゅう昼間から家に帰ってきたりしていた。
実はこのおだやかなおじさんは刑事さんだったのだ。それを知った私たちはいっせいに押しかけていって、無理にせがんで手錠だの警察手帳だのを見せてもらったものだ。ピストルは見せてもらえなかった。
「持っていないんだよ」
と、非番でステテコ姿のおじさんは言った。
「えー、でもどうしてえ? わるいやつをつかまえた時なんか、どうするのー」
子供たちはなかなか納得しなかった。
この家には、ふき子おねえちゃんという若い女の人もいた。丸顔で言葉つきがぶっきらぼうで明るい人だった。当時には珍しく、いつもスラックス姿にエプロンをしていた。この人にそのころ赤ちゃんが生まれた。私たちは、赤ちゃんを見せてもらいに行った。これはけちけちせずいくらでも見せてもらえた。
「赤ちゃんみせてー」
と外で呼ぶと、
「はいよー」
と窓からふき子さんが、赤ちゃんを抱いて顔をのぞかせるのだった。みんなはすぐ飽きたが、私はその後もしょっちゅう行って、このまもる君がどんどん成長するのを見て飽きなかった。まもる君がつかまり立ちをするほどになったある日、私は言った。
「でもつまんないな、まもるちゃん、もうじきいなくなっちゃうんでしょ」
「あらどうして?」
とふき子おねえちゃんがきいた。
「だってそのうちおねえちゃん、まもるちゃんをつれてお嫁にいっちゃうんでしょ」
その時どっとばかりに大笑いされたわけが、私にはわからなかった。
ふき子さんはその家の娘ではなくて、お嫁さんだったのだ。おねえちゃんと呼ばされていたので、わたしはお嫁入り前だと思い込んでいたのだが。姿を見たことがないので私は知らなかったが、その家には刑事さんの息子もいっしょに住んでいたのだ。やはりお巡りさんなのだった。あの交番のお巡りさんだったのかどうかはわからない。
「お嫁さんでなきゃ、赤ちゃんが生まれるはずがないじゃないの」
と私は母親にも笑われたが、そんなこと知るはずがないではないか。
それにしても、おなじ町内にどろぼうの一家とお巡りさんの一家が、一軒おいてとなり同士に住んでいたわけだ。どろぼう一家の堂々としたところがむしろあっぱれだったろう。
刑事さんの家の玄関をあがったつきあたりに、開けてはいけないという開き戸があった。私はその向こうがどうなっているのか不思議でならなかったが、なんのことはない、その向こうの家には庭をまわってしょっちゅう遊びに行っていたのだ。ちゃんばらごっこでかけまわったのがその庭だった。
その家の一人っ子は京一君という。目が細くて、坊ちゃん刈りだった。
六歳の春私はこの京ちゃんと、ただしちゃんの行っていた幼稚園へ行くことになった。もうひとりはるちゃんという子が、二年保育の年少組に入った。この年、その界隈で幼稚園に行くことになったのはこの三人だけだった。
毎朝京ちゃんとはるちゃんが私の家にやってきて、それから三人で連れ立って通園した。私の家から原っぱを斜めに横切って、じゃり道の坂を下ると、赤い水の流れるどぶ川があり、その岸には町工場がならび、ガタンガタンと機械の音がする。人家もあるが、軒が低く塀もかきねもない長屋である。そんな道をしばらく行くと、小学校と公園の横を通って、舗装のある広い通りに出る。
「自動車に気をつけなさいよ」
と、それぞれの母親にくどいほど言われているから、みんなこの通りを横切るときには緊張したが、車はめったに通らなかった。通りを渡って栗の木が両側に生えた坂を登るとそこが幼稚園だった。
この道を毎朝三人で通った。ぶらぶらと遊びながら行くのだった。京ちゃんは空想好きだった。そこいらからいろんな敵が、京ちゃんをめがけておそいかかってくるらしく、それを撃退しつつ進んでいるのだった。「おのれっ」とさけんで道の脇の土手をかけのぼったり、電信ばしらに突進して切りつけたりした。道すじの空き家らしい建物は「ばけもの屋敷」で、白い羽に黒い目玉模様のついた不気味な蛾がいっぱい張りついている木立は「毒蛾のとうげ」であり、どぶ川は「アマゾン河」だった。私も京ちゃんの空想にひきこまれ、ばけもの屋敷の横を通るときはひやひやした。はるちゃんは黙ってあとからついてきた。はるちゃんは私たちよりだいぶ小さく、京ちゃんがそうやって遊び遊び行かなければ、私たちの足に追いつかなかっただろう。
坂の上にお寺があり、幼稚園はお寺の住職さんの経営だった。
毎朝講堂で朝礼があった。講堂は天井が高く、板敷の床はぴかぴかしていた。正面の白い壁の上の方にある小さな木の扉が毎朝開かれ、その奥にある仏像に向かって手を合わせて、
「なむだいしへんじょうこんごう」
と唱えさせられた。それがお大師さまの像だったのか、観音さまだったのか、当時の私にはわからなかった。
私と京ちゃんは「すずらんぐみ」で、二年保育のはるちゃんは「ことりぐみ」だった。ほかに「すみれぐみ」と「さくらぐみ」があったが、さくらぐみは二年保育のもちあがりの連中で、私たちと同い年のはずなのに、やたらと世慣れていてずうずうしかった。さくらぐみのせんせいはおばあさんで、住職さんの奥さんだった。ことりぐみのせんせいは頭をあおく剃りあげた若い男の人で、息子さんだったらしい。すみれぐみのせんせいはおばさんだった。すずらんぐみの鈴木せんせいは、一番若くてきれいなので、私はうれしかった。
お絵描きの時間やお遊戯の時間があって、私は難なくこなすことができたが、やはり待ち遠しいのはお遊びの時間(自由時間)だった。
お寺の本堂の前の広場にはジャングルジムがあったが、ここで遊ぶことはめったにゆるされなかった。お寺の南側の斜面に、金網のフェンスで囲った遊び場があった。ぶらんこもすべりだいも、たいていさくらぐみの男の子たちが占領していた。彼らは「おおかみごっこ」と称して、すべりだいとそのまわりで、なんだかやたら激しいおっかけっこや取っ組み合いをやっていた。砂場の真ん中も連中がのさばっているので、私はすみっこで遠慮しながら砂山をつくったりしていた。
ある日さくらの連中が協力して、砂場いっぱいに大きなお城をつくった。うねうねとした城壁に囲まれて、いくつもの塔や丸屋根の宮殿や中庭があって、それはみごとなものだった。私たちも指図をうけて手伝わされた。城壁にはトンネルを掘って城門とし、周囲には堀をめぐらした。私は彼らの造形力に感嘆したが、できあがるとすぐに、彼らは戦争ごっこをはじめて、苦労してつくったお城を攻撃しはじめ、惜しげもなく突き崩してしまうのだった。
京ちゃんの家の庭は広く、南向きの座敷はいつも開けっ放しだった。かぎの手の廊下や床の間もあったが、木村さんちとちがってほとんど家具のたぐいがなく、存分に遊びに使えた。この座敷で海賊ごっこをした。椅子を船に見立て、ざぶとんを島に見立てて、たたみの海をクロールでのたくってまわるのだった。京ちゃんの空想力は、くじらや嵐や敵の船などいろんなものを生み出した。また京ちゃんは、くらま天狗ごっこが好きだった。「天狗のおじちゃーん」とさけぶようにはるちゃんを仕込み、庭ぼうきにまたがって、物置のかげから、「パカラッ、パカラッ」と杉作少年のはるちゃんを救うために駆けつけてくるのだった。
私はこのころ幼年クラブなどを読んでけっこう雑多な知識があったから、それが京ちゃんの空想力を刺激して、私たちの遊びは変化に富んでいた。京ちゃんはこれまでの遊び友だちとはちがっていた。私にとって同い年で対等だったのだ。よくけんかもした。もちろん口げんかである。京ちゃんは「おんなをぶつ」なんてことは決してしなかった。私も簡単にはゆずらず、おこって家に帰った。しばらくすると京ちゃんが命じたのか、はるちゃんが、「遊びましょ」と呼びに来る。私もまた遊びたくてしかたがないから、意地も見栄もなくすぐ飛び出して行き、ごめんも言わずにまた遊ぶのだった。
はるちゃんは一級下だったが、早生まれだから私たちより二歳近く年下で、ずいぶん幼なかった。幼稚園でおもらしをして着替えのパンツをはかされ、帰る途中でぬれたパンツを私の家の塀越しにほうりこんでいったりした。ときどき洟をたらしていたが、こぎれいなかっこうをさせられていて、育ちがよさそうに見えた。茶色い髪がおでこのところでキュウピーさんのようにくるりと巻いていた。のろまのように見えたが、幼なかっただけだろう。ほんとはやすはるといって、あのやすあき君の弟なのだった。
京ちゃんの家の一軒おいて隣がはるちゃんの家だった。小さな家だったが、まるごと全部はるちゃんの一家のものだった。板塀で囲まれた小さな庭は藤棚でおおわれ、つつじなどの庭木がびっしり生えていた。小さな池のほとりにざくろの木があった。ざくろの実のなるころ遊びにゆくと、やすあき君が木に登って実をもいでくれた。このころやすあき君の粗暴さもおさまっていて、もうそんなにこわくはなかった。やすあき君も小学生になっていたから、おんなをいじめたりしなくなったのだ。
やすあき君たちが実の割れ目からこぼれる赤い種をしゃぶるのを、私は黙って見ていた。私たちは、よその家で食べ物をもらってはいけないときびしくしつけられていたのだ。ちゃぶ台のそばでステテコ姿でごろ寝していたはるちゃんたちのお父さんが、食べなさいとしきりにすすめるので、私はおそるおそるその珍しい果物に手を出した。赤い小さな種は固くて酸っぱかった。おいしいものではなかったが、はじめて見、はじめて食べた不思議な果物だった。
はるちゃんは兄ちゃんとは遊ばず、京ちゃんを兄貴のようにしていつもくっついてまわっていた。京ちゃんのすることはなんでもまねをした。私の母親がそれをみて、「腰ぎんちゃく」とか、「金魚のうんこ」とか言って笑った。しかし、私と京ちゃんがけんかするときはいつも中立の立場を守っていた。はるちゃんは私たちの中ではみそっかすだったが、容易には泣かず、我を張らず、辛抱強かった。けっこう肝のすわった子だったのかも知れない。
私もときどきけんかはしたが、だいたいにおいて京ちゃんには一目おいていた。京ちゃんはまだ幼稚園だったが、当時の男の子の必修科目というべきものはほとんどマスターしていた。京ちゃんのまわすコマは、日あたりのよい縁側でいつまでもくるくる回った。ケンダマもじょうずだった。竹馬にも乗れた。私ははるちゃんといっしょになって、京ちゃんのそういうわざにみとれるばかりだった。
京ちゃんはハトを飼っていた。物置にさしかける形でハト小屋があり、ひとりで世話をしていた。あるときハトがひなをかえした。私たちは毎日ひなを見守った。ひなはしきりに親バトの胸をつついた。
「お乳をのんでいるんだ」
と京ちゃんがいった。私が、鳥が乳を出すはずがないと言いはったのでけんかになったりした。私と京ちゃんのけんかはだいたいこういうことが原因だった。私が変にはんぱな知識をふりまわすからだった。のちにハトがほんとうに乳を出してひなを育てることを知り、私は京ちゃんのいうことが正しかったのだとさとったが、それは京ちゃんと遠く離れて暮らすようになってから何年もあとのことだった。
やがてひなは親バトののどの奥にくちばしをつっこむようになった。親バトは苦しそうに目を閉じて、じっと耐えているようだった。そうやって親バトの胃からものを食べるらしかった。このころになると京ちゃんは、ひなを小屋からとりだして、細く割った竹の棒で器用にすり餌をやった。すり餌も京ちゃんがすりばちですってつくるのだ。京ちゃんは羽根もはえそろわないひなを抱いてまわり、「飛ぶ練習だっ」といってほうり投げたりした。ひなはばたばたとはばたいて落ちるばかりだった。ある日、ついにひなが飛び立った。木村さんちの屋根まで飛んで行き、しばらく休んだ後、ちゃんとハト小屋の屋根までもどってきた。この日の感激を私は忘れない。
京ちゃんはしかし甘えっ子だった。私たちの目の前で平気でお母さんに甘えた。お母さんは京ちゃんそっくりで、細面で目が細く、声もかぼそかった。いつも着物に割烹着をかけていた。私はこのお母さんが、京ちゃんを叱るのを見たことがない。私の母親はこごとが多かったから、私はやさしいお母さんをもっている京ちゃんがうらやましかった。お父さんは昼間は家にいないので、顔を見ることはほとんどなかった。しかし京ちゃんの口にはお父さんの名がしょっちゅうのぼった。竹馬も、ハト小屋も、「お父さんがつくってくれたんだ」というのだった。
京ちゃんのお父さんが、あるとき奥の部屋にずっと寝ていたことがあった。片足は包帯をぐるぐる巻いて象の足のようだった。松葉杖をついて、広い土間の台所をのろのろ動きまわっていたりもした。お父さんは大工さんで、足場から落ちて骨折したのだった。この療養生活はけっこう長かった。ある日京ちゃんのお母さんが、髪を振り乱し、真っ赤な顔をしながら井戸端でごしごし洗濯をしていた。おばさんは泣いていたのだ。刑事さんのおばさんが、しゃがみこんでながながと話をきいてあげていた。京ちゃんのお父さんがお酒をのんでお母さんをぶったのだそうだ。おとなが泣くのもはじめて見たし、おとなの男の人が「おんなをぶつ」なんてことも初めて知ったので、私はびっくりした。だから私は京ちゃんのお父さんがこわかった。しかしその後、おじさんはけががなおって仕事に出るようになり、昼間からお酒をのむというのはおじさんの習慣ではないようだった。けがをして何ヵ月も仕事ができなかったのだから、いらいらすることもあったのだろう。
表通りの映画館にゴジラの映画が来た。火をふいているゴジラの姿を描いた看板が、私の住む横町の電信ばしらにも立てかけられた。母親といっしょの買い物の行き帰り、私はその看板のそばを顔をそむけて通った。そんなグロテスクなものをそれまで見たことがなかったので、恐ろしかったのだ。だからもちろんゴジラの映画など見には行かなかったのだが、私の読んでいる幼年クラブにも、映画のあらすじやビルを破壊して暴れまわるゴジラの写真が載った。
ある日ゴジラの夢を見た。ゴジラが私の住む町に迫ってくるという夢だった。消防車のサイレンが鳴り、向こうの空が赤くなり、木造平屋建ての家々の灰色の屋根の向こうに、ゴジラがぬっと姿を現すのだ。私の家の板塀がメリメリと倒れ、必死に逃げまどっていると、京ちゃんが走ってきて、
「あっちはもうあぶないから、向こうへ逃げろ」
などと指図するのだ。京ちゃんは少年王者の真吾のように勇敢で頼もしくみえた。
その後ラジオでも、ゴジラの話がドラマ化されて、これは聴くことができた。ゴジラが水爆実験で呼び起こされたというくだりは記憶にない。最後にゴジラが氷山の間におびきよせられて、自衛隊機の爆撃をうけて氷にうずまり、
「グルルルルゥ……グルルルルゥ……」
と悲しそうになきながら死んで行くのでかわいそうになった。それからゴジラはこわくなくなった。
小学校へ行くようになると、京ちゃんは男の子と、私は女の子と遊ぶようになり、いっしょに遊ぶことはほとんどなくなってしまった。ところがある日、学校から帰ると、京ちゃんが私の家の庭で、遊びながら私の帰りを待っていた。京ちゃんは釘を踏んで学校を休んでいたのだ。足が痛くて男の子の遊びができなかったのだろう。金魚のうんこのはるちゃんもいっしょだった。京ちゃんはぼくでなく、おれ、というようになっていた。そしてずっと背がのびて活発になったはるちゃんも、しきりにおれがおれがと言っていた。すこし気恥ずかしかったが、ひさしぶりに三人で遊んだ。
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