「人を好きになれない」の恐怖 2

前回、恋愛感情に対する違和感や、社会的な圧力のことを書きました。

今回はその続きですが、クリスチャンとして自分が考えていたことがメインになります。マスに対してどの程度の共感を誘うのか、ちょっと興味があります。

イジメの記憶

わたしは小学校のころ、いじめられることが多くありました。ニュースになるような物理的な攻撃ではなく、私立の小さな学校だったので程度も知れているものだと、今では思います。それでもやっぱり、人間関係が自分の期待に反してうまくいかないとというのは、辛い事でした。

女子は陰口を叩いたり、仲間外れにしたりしてきます。そうじゃない、性格の穏やかな優しい子もいたので、孤独にはなりませんでした。が、教室内のカースト上位集団にハブられるというのは、やっぱりあれですよ…。

中学に入って、人間関係も少し変わったことで、そういったことは少なくなりました。友だちもできたし、勉強の出来る子、のポジションを得ることで、自分の中でバランスが取れたと思います。女子校になったこともありますし。

男子はもっと幼稚なので、デブとかブスとか言われるのは日常でした。わたしは物心ついたときから太っているので、間違っちゃいないですが…。でも馬鹿にされて、時にカバンを叩かれたりなんだりしていると、自尊心はズタズタに傷つくのです。わたしは大人になった今も、自分の体型や容姿がコンプレックスで、全く自信が持てません。

毎日のように攻撃されると、こちらも対応策を持つようになります。わたしの場合は、相手を馬鹿にして見下すこと、相手の弱点をコテンパンにこき下ろすことを覚えました。大抵、小学校くらいなら女子のほうが口も回ります。相手の非を、欠点を、相手が黙り込むまであげつらう以外に、身を守る方法がありませんでした。

これもだいぶ緩和されたとはいえ、今でも初対面の男は無意識に敵だと感じていますし、常に口で勝てるよう、気を張って生きているなぁと思います。

自分がアセクシャルだと知るのに時間がかかったのは、こういった経緯もあるのだと思います。

男性が赦せない、という気づき

ここから、ちょっとクリスチャン視点の話になります。

20代になって、周りが彼氏だ結婚だと本気で騒ぐようになってから、自分に恋愛感情が起こらないことが不安でしょうがなかったことは、前回の記事でも書きました。

クリスチャンのちょっと大きなカンファレンスに行くと、大抵「結婚」をテーマにした講義やワークショップがあります。20代30代の女性はギラギラしながら参加しています。

自分もそうでなくてはいけない、という義務感と、他人の恋愛事情を覗き見する興味から、そういうのに参加していくうちに、いくつか心に引っかかることがありました。

それは、女性の経験談として、「むかし男性関係で傷ついたことがあり、ずっと男性を避けていたけれど、相手を赦しますと祈っていくうちに傷が癒され、この人に出会って結婚しました」というものが、いくつかあったのです。

それまでも、自分の人間関係がうまくいかないのはいじめのせいだと考えていた(今は「内向型」も要因の一部だと思っていますが)ので、そういう話を聞くうちに、「ああ、私の状態はこれだ」と考えるようになりました。

わたしは、過去にわたしを傷つけた男子を赦せていない。だから男性は敵だと思うし怖いと思うんだ、と。そのことを、一緒に参加していた女性に話しました。全部は言えなかったので、「赦せない人がいる」とだけ。彼女は、その話を真剣に受け止めて、自分にもそういう人がいること、でも自分はそこから抜け出すために、相手を赦す決意をしたことを話してくれました。その後、彼女が実際にその問題にどう対処しているのかは分かりません。でも彼女はわたしにそう告げるだけではなく、ほかの参加者の前で堂々とその決意を語りました。すごくかっこよくて、わたしもそのようでありたいと思ったのです。

人前で話す勇気はありませんでした。牧師に話そうかとも思いましたが、何を話そうかと考えるだけで泣きそうになるので、これは無理だと思って、ひとりで祈りました。

神さま、わたしは昔わたしをいじめていた人たちを赦します。人を赦せないわたしを、人の良いところを認めて好きになれないわたしを赦してください。

そう祈ったあと、だいぶスッキリした気持ちになりました。これからまた、人付き合いもがんばっていこうと思いましたし、実際よくがんばったと思います。しばらくはそれでよかったのです。


次回に続きます。

Makiのコーヒー代かプロテイン代になります。 差し入れありがとうございます😊