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アセクシュアル:それは呪いか祝福か

「クリスチャン新聞」に、最近LGBTQの特集が連載されています。1面にバーンと出ているので、とても目立っています。
さらっと斜め読みをしただけですが、こういう取り組みがキリスト教界で増えてくれるといいなあ、と思いました。

そして同時に、いろいろと考えることがありました。

罪の意識とかのはなし

わたし自身、だいぶ前の記事に書きましたが、「人を(恋愛的に)好きにならないのは、(キリスト教で言うところの)罪の結果なのではないか」と思い詰めていたことがあります。
数年間、そのことを考える度に比喩ではなく涙を流すような日々を送りました。今でもたぶん、その時のことを発話すると泣くと思います。

その後、「アセクシュアル」という概念に出会い、紆余曲折の末にそれを自分のアイデンティティとして認めたときにはじめて、「これは罪ではないらしい」と思えるようになりました。

今では、アロマンティック/アセクシュアルであることは、罪でもなんでもなく、わたしの性質である、と感じています。

「クリスチャン新聞」の記事には、LGBの方の体験談や、Tの方の体験談が書かれていました。
「罪の意識」問題はほとんどの人に共通する経験ですが、それによって苦しみ教会を離れた人、反対にそれによってクリスチャンになった人、結果はさまざまでした。

「祝福」ってなんだろうね

人によっては、「今では自分のセクシュアリティは祝福だと思っています」ということがあります。それ自体はすてきなことだと思います。

わたしはというと、アロマ/アセクであることを「祝福」とは捉えていません。今のところね。
アロマ/アセクの生きづらさは、確実にそこにあるのに可視化・言語化がとても難しいです。わたしはまだ、自分の生きづらさを他者にわかるように表現する方法を見つけられていませんし、当事者以外から共感を得られた経験もありません。

「祝福」と表現するには、アロマ/アセクという性質はわたしにとって「当たり前」のことすぎる気がします。
日本に住んでいて、「蛇口を捻ったら水が出る!祝福だ!」と意識している人はあまりいないでしょう。当たり前のことだからです。
それよりも、「東京の水はまずい」とか「水道代が高い」とか、文句や不満があるのではないでしょうか。
それが人間の性質です。

生きづらさという呪い

都会に住んでいる女性は分かると思いますが、毎日電車に乗って通勤通学をするのは、神経をすり減らすことです。
あるとき、痴漢に遭います。
混雑具合は関係なく、こちらに全く非がないにも関わらず、痴漢に遭います。
次第に、痴漢に遭わないためにはどうすればいいのか、無意識に対応できるようになっていきます。
でも、痴漢に遭わなくなったことは、痴漢がいないこととイコールではありません。
電車内で、夜道で、気を抜いていいことにはなりません。
女性が外出時に身を守る意識を持たずにいることは、無意識であろうと不可能で、そしてそのひとつひとつは、非常に言語化が難しい些細な行動の積み重ねです。

わたしがアロマ/アセクでいることは、男性ばかりの満員電車に乗ることに似ています。
そこに痴漢は1人もいないかもしれない。
でもいるかもしれない。
意図せずに、体に触られてしまうことがあるかもしれない。
仕方がなく、押しつぶされたり嫌な体勢になるかもしれない。
わたしは、幼少期から身につけた対処法によって不快な接触をかわし、時に反撃をし、時に心を殺して降車駅までの時間を耐えます。

わたしはアロマ/アセクだと自覚する前から、恋愛、性愛、結婚、出産といった話題をかわし、話をそらし、反撃し、心を殺して耐える方法を身につけてきました。

これが呪いではなく、なんだというのでしょうか。

わたしは自分がシス女性であることを当たり前と思っていますが、それは確かに、人によってはありがたいことでしょう。
だからといって、痴漢対策をしなければ生きていけないことを、「女性としての祝福があるから、そんなことはいいじゃないか」とは言わないでしょう。
でもこういうことは、痴漢に遭ったことのない人、自分が痴漢に遭うとは思っていない人にとっては、「なんて大袈裟な」「世の中悪い人ばかりじゃない」という程度のことなのです。

呪いか、それとも祝福か

わたしはまだ、アロマ/アセクであることが祝福だとは思えません。
いいことがない、とは言いません。
でも呪いがあり、それが他者から認知も理解もされない世界にいると、生きづらいなと思います。

共感ってなんなのでしょうか。
わたしに共感してくれる人は、どのくらいいるのでしょうか。
共感を持って励まし合い慰め合い、祈り合える人に、いまだに出会えていません。

「誰しも生きづらさを持っているから」という言葉には、慰めがありません。
「神様に祈るしかないよ」という言葉に、希望はありません。
そこに共感がない限りは。

やっぱりわたしは、呪いを抱えて生きているのだと思わざるをえないのです。

Makiのコーヒー代かプロテイン代になります。 差し入れありがとうございます😊