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ときどき、きれいに

どうにもまずいのである。

唐突にどうしたという感じだが、自分が作るごはんの話である。
春から夫がテレワークになり、料理の時間が格段に増えた。もともと3食自炊だし料理は好きなので苦ではない。何を出してもうまいうまいと食べてくれる人なので作りがいもある。しかし作り続けてハタと気づいた。最近、ごはんがまずい。どうにも味が腑抜けている。夫は変わらずうまいうまいと食べてくれるが、それすら「気を遣って言ってくれているのでは!?」と被害妄想丸出しの目で見る始末。すっかり気が重くなってしまった。

状況もまずいが味もまずい。こうなるともはや土井善晴先生のお導きにすがるしかないだろうと思いたち、『ふだんの料理がおいしくなる理由 「きれい」な味作りのレッスン』を買った。すると、なぜか霧が晴れるように苦悩が消えたのである。いや、なぜかということはないだろう。粉を薄く薄くはたき、丁寧に野菜を扱い、面倒がらずに急冷した。結果、おいしい。

試行錯誤していたときは、味付け、つまり調味料の量だの種類だのが問題だと思っていた。しかしこの本はタイトルにある通り「きれい」という視点なのである。レシピの途中に「きれい」とはどういう状態でどう作るのか、「きれい」がなぜ大事なのかが繰り返し触れられる。きれいに澄んだ煮汁、きれいに保たれた青菜の色。先生のおっしゃるとおり、「きれいだな〜」と思って野菜を扱う。すると「おいしい」のだ。また、料理が楽しくなってきた。

土井先生はこう書いている。

私たちにとって『きれい』とは、『自然』なこと。不自然でないことです。
(『ふだんの料理がおいしくなる理由 「きれい」な味作りのレッスン』より)

さて、料理はきれいなのが良いが、人生はきれいごとばかりとはいかない。「清濁併せ呑む」という言葉がある。「水清ければ魚棲まず」という言葉もある。大人になると、まあこれが実に大事である。きれいごとばかりでは生きていけない。しかし悪ばかりで魂がくさるのも問題である。バランスをとりながら、なんとかうまいことやっていくのだ。それでも清濁のはざまで自分を見失いそうになってしまったときは、ときどき「きれいとは何か」に立ち戻って考えてみるとヒントが見つかるかもしれない。きれいだなと思える生き方。自然だと思える自分。いたずらに強い味や色をつけて、なんとかしようとする前に。



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