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マイ・メランコリック・ウォンバット

おいしいよ、と言わなくなったのはいつからだろう。

完熟トマトと卵の炒めもの。ごく細い千切りにしたにんじんのサラダ。鶏手羽中のソテー、セロリスティック。それらを食べながらもくもくとスマホをいじる恋人を見てそう思った。もりもり食べてくれているのだから、きっと口には合うのだろう。量は足りているか、味は薄くないか、と問いかけて口をつぐむ。

かつての恋人は、友達の多い人だった。

向き合って食事をしているときも常に右手にはスマホがあり、SNSの向こうの私が知らない誰かとつながっていた。「ほら、コイツこんなこと言ってる」「こんな連絡が来た。信じられる?」などなど、画面をシェアすることからやっと話題が始まった。ただ、その“誰か”との話がのってくると彼はやりとりに夢中になり、私は静かにごはんを食べ続けるしかなかった。スマホなんか置いてこっちを見て、と言いでもしたら、嫌われてしまいそうで怖かった。

淋しかった。

次の恋人も、よくスマホに触れていた。仕事が忙しい人だった。四六時中連絡が来るから、見ていなければいけない。そう言って、LINEやメールをスクロールしながら食事をした。仕事を邪魔する女とでも思われたら、嫌われてしまいそうで怖かった。

淋しかった。

どちらも昔の話である。思い出さなくてもいいことをわざわざ思い出すのは私の悪い癖だ。思い出したってそこには何も得るものはない。目の前の恋人を大切にする以上に、私にできることはないのだ。わしわしとごはんとかき込みながら、目の前の彼が突然口を開く。

「ウォンバットは時速20kmで走るらしいよ」

え、と答えると彼は続けた。ウォンバットはおなかに袋があって、名前はアボリジニの言葉に由来しているんだね。コアラやカンガルーと同じで。その言語はもう消滅していて、そういえばアイヌ語も――

我々は直前まで、うつになったウォンバットの話をしていたのだった。台風で海外の動物園が閉鎖になり、来園者とのスキンシップを失ったウォンバット君が淋しさからうつになってしまった。そんな数年前のニュースを見たのである。なでなでやハグの“治療”を受けるウォンバット君の画像の可愛らしさといったら!! で、彼はさっそくウォンバットが気になって気になってしかたがなく、右手にごはん、左手にスマホで私にウォンバット情報を教えてくれたのだった。

「トマトと卵うまいね。これすごくおいしい。で、アイヌ語は消滅危険度評価でいえば極めて深刻。なんでこんなこと知っているかというと、前に言語コードを登録するときに……」

あ、と思った。いったん何かに関心を持つと止まらず、とことん調べては延々と説明をするのが恋人のクセである。そういえばふたりで住む家をさがしているとき、物件までの道のりを歩きながら「友達がMRIを受けることになって」と話したら、彼はおもむろにMRIの原理を語り始めた。なぜだ。友達が心配なんだけどな、と思って話を聞いていたら話題はMRIとCTの違いに移り、画像解析の仕組みとその難しさとなった。日常が続くがごとくMRIの話は続く。やっと彼が黙ったのは15分もした頃で、内見した物件は遠く離れ、我々はスーパーに向かっていた。

「というわけだから、友達の病状はそんなに心配ないと思う」

ここにきて私は初めて、彼は彼なりのやり方で、一生懸命に私に寄り添おうとしてくれていたのだと理解したのだ。ちなみにここまでの話題からお察しいただける通り、恋人はド理系で、愛読書は講談社ブルーバックスである。

ここで話は食卓に戻る。目の前でスマホをいじっていたが、それは私と話すためだった。そういえば以前からそうだった。きれいに空になったお皿と、まだウォンバット情報について話し続けている恋人を見て思う。長いだろ。「あかりさんはウォンバットそっくりだね」って、似てないだろ。なんだかもう涙が出そうである。見えない誰かと自分を比べて落ち込んだり、「私なんていなくていいじゃん」と砂を噛むような思いでごはんを食べたりする記憶は、そろそろ「終わったこと」にしなくちゃいけない。そして目の前のこの人と、また新しい食卓を囲むのだ。あしたも、そのつぎも。

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