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異性愛規範をこれほど強く呪った日はない

これの続き。

結局、私は真摯に振る舞うことを選んだ。恋人をより大切にする選択肢をとった。
ただし、友人にも最大限傷をつけず、失礼の無い表現を選んだ。そのせいで伝わりきっていないことがあると思っているが、やむを得ないと思う。

友人と言うにはあまりにも自分を晒しすぎており、恋人と呼ぶには性欲も甘えたい欲求がなさ過ぎる。自分でも定義が困難な感情を、ここ半年近くずっと抱えてきた。

たぶん相手も同じであろう。
「一線」だけは決して越えまいと、ひたすら言葉を選んでちょくちょく牽制し合っていたのだから。
牽制していないと、相手が与える暖かさに吞まれかねないから。

でも、もはや距離を置くにも心臓を裂くような感覚に襲われてしまうような、互いにある種の依存をしてしまっているように感じている。
絶対にこの線は越えないという覚悟の元、それ以外の感情を全て洗いざらい晒した関係。本当に貴重なもので、恋人の次くらいには失いたくない存在になってしまっている。強いて言うならば親友(3)と言うべきか。

この人が同じ性別だったら、バーに二人きりで突入して闇と光について話し合うことが出来るのに。
この人が同じ性別だったら、数時間にわたる長電話だって喜んで許可するのに。
この人が同じ性別だったら、二人で遠い街に旅行に行って、自分が見た景色を追体験して貰いたいと思うのに。

全部全部、相手が男性だから、自分が女性だから、できない。
悲しい、悔しい。

人間が無性別だったらいいか、若しくはもっと同性愛と異性愛の世間的な立ち位置が全く同一になるか。
私は異性愛規範をぶっ壊したい。

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