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アウトプットはしたもん勝ち

まだnoteをはじめて数ヵ月、毎日更新を決めてから数日だが、気づいたことがある。

自分が言ったこと、書いたこと、世に放ったコトバたちには、自動的に責任を持つようにできている。

インスタやアメブロ、フェイスブックも、「いいね!」の数で評価が左右されるように感じるのがしっくりこなくて(一定の指数ではあるのだけれど)、本音も書けない中で、しかしアウトプット欲=承認欲求が時に顔をのぞかせ、これまでトライアンドエラーを繰り返してきた。しかし、私自身、フォローしていない人の投稿や、いいね!せずともこっそり見ていた記事に、何かしら影響されて行動を変えていたり、一日中そのことについて考えていたりすることがあるではないか!と、気づいたのだった。ということは、私のアウトプットも、誰かの記憶には一瞬残ったり、こんな人もいるんだな、くらいのレベルで認識されることも期待できるかもしれない。なのに、これまでなぜに頑なに「私のことなんて~誰も見ていないし~~」と足踏みをしていたのか。

確かに、昨年9月から書き始めたミーニングノートの10月時点では、自分自身についての分析で、「誰も見ていないのに、発信すること自体躊躇するのはなんで?」「今までなぜそんなにひっそりと生きようとしていたのか、疑問になった。」と書いている。本当に何かに隠れるように、毎日を生きていたのだ。そこからまた、毎日の中で起こりうる出来事に意味づけをする訓練をして、今日に至る。

詳しくは、こちら、ご参照ください。


承認欲求だって、『アンタ、人に求めず、自分で自分、認めてあげたらいいんやないの(突然関西弁)』という心境だ。これにはアドラーの学びが活きている。

冒頭の気づきに戻るが、週1回30分程ほど、昨年一緒に講座を受けた仲間と「アウトプット会」を実施している。その週にあった出来事から、気づきを簡単に纏め発表する場だ。アドラーに関することから、日々の子育ての中で起こるほっこりした話、大好きな手帳やノートのことなど、「自分の言葉で話す」練習を4人で行っている。先日ここで、「来年の3月で会社員を卒業しようと思っている。」と言ってしまった。思いがけず、ポロっとだ。漠然と目指す方向だったし、noteにも1年後の働き方については模索していくと書いてはいたが、信頼する仲間を前に、無意識に出たその言葉に一番驚いたのが自分で、それがまた可笑しかった。言ってしまった手前、もうそうするしかない、と腹をくくることができし、そうと決まれば意識が変わり、行動も変わる。本当に不思議だ。というわけで、私の会社員生活は残り約11ヵ月になりました(それで名前を変えました)。

何のためにそれをやるか。何を隠そう、アウトプットは自分のためだ。そう意味づければ、また明日からの投稿も楽しくなりそうだ。

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