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それぞれの10年、思うだけ、願うだけを僕はやめた

 それぞれの10年、思うだけ、願うだけを僕はやめた。

 東日本大震災から10年経つと聞いて驚いた。もう10年、やっと10年、それは人それぞれだと思うが、僕にとっては「あっという間の10年」だ。僕は今でもあの日のことをはっきりと覚えている。僕はあの日海辺にいた。

 その日も仕事で和歌山県の海で、ダイビング講習をした。一通り講習を終えた僕らは、海を見ながらお昼ご飯を食べていた。関西も地震があったと後になってから知ったが、僕らは揺れには気づかなかった。だけどそれぞれの携帯電話が一斉に鳴り響き驚いた。当時はまだガラケー時代。地震のアラームなんてものもない。みんなの携帯電話に、東北の地震を心配して電話がかかっていたのだ。ここは東北からかなり距離がある和歌山県。それでもおそらく津波の事を思って電話がかけられたらしい。僕たちはすぐに東北で大きな地震があった事を知り、急遽つけられたテレビ画面に流れる映像を見て言葉を失った。和歌山県には大きな津波の不安がないと分かったが、東北の人たちの無事を祈るしか出来ない自分の無力さに絶望した。

 ダイビングは津波対策を徹底している。避難経路の確保は勿論、海にいる時に地震があると、漁師がとる避難方法に習い、沖合に避難するなどきちんと取り決められている。波は陸に近くなればなる程高くなるので、地震時には沖合に向かうのが安全だとわかっている。こういう事を知っている為、津波に対する意識は普段から強い。

 テレビは連日震災関連の報道で占められた。それが昔の記憶と繋がった。僕は小学5年の時に、大阪で阪神大震災の揺れを経験していた。世界がぐにゃぐにゃになった大きな地震に僕は恐怖を覚えた。雷も親父もそんなに怖くはないが、それから僕は地震が怖くなった。

 きっと、あの頃の自分と同じように怖くてたまらない子供たちは沢山いるはず、大人も怖いだろう、お年寄りもそう。寒い中の避難生活を、テレビでただ見ているしか出来なかった時に、僕は気づいた。

「果たして、僕は、僕らはただただテレビを見て心配するしか出来ないのだろうか?」思っても、願っても、心配しても、この人たちには届かないし、何も変わらない。
 何か出来ないだろうか?
 自分でも出来る事を探すと、程なくして見つかったので僕は実行した。それは千羽鶴を送るのではない。前回の震災の時に、千羽鶴が送られて避難所が困ったという情報を知っていたので、相手が困る事はするべきじゃないと思っている。そして、この経験から、僕は子供の頃に夢見ていた「夢」を思い出した。

 それが、ホスピタルアートだ。

 僕は先天性十二指腸閉鎖症という病気で生まれた。生後3日で手術を受けたり、12才まで通院していたのだが、その時に「病院にもっと色んな絵や写真あったらいいのにな、そしたら診察とかもっと頑張れるのにな」と願っていた。「誰かしてくれないかな」と思っていたけど、子供だからそんな願いは声に出せなかった。思い続けていると、いつしかそれが夢になっていた。12才の誕生日で通院を終えた時点ではその夢は叶っていなかったものの、きっと誰かが実現してくれているだろうと、なんとなく思っていた、この夢を僕は思い出した。

 ふと、僕はその夢が実現しているか確認してみる事にした。答えは携帯やパソコンの中にあり、すぐにわかる。調べると、まだ日本では普及していない事実を知った。一部の病院では実施されているものの、まだその一部にとどまっている現実を見た。目を逸らし続けてきた自分を恥じた。忙しかった、自分のことでいっぱいだったのも事実だが、夢が叶っていないのも、忘れてしまっていたのも事実。通院していた頃の自分を思い出したのも事実。もう目を逸らしたくないと決意したのも事実。

 震災から10年、去年4つの病院でホスピタルアートとして海の写真を展示し、今年は今も3つの病院で海の写真を展示しています。思うだけ、願うだけをやめたら、こうやって実際に出来た。まだ一部だけど、日本で普及をしたいので頑張ります。あれから10年、そしてこれからの10年、また10年後、ここに書きたい。どんな10年だろうか、頑張りたい。


プロフィール


大阪でダイビングショップしています。冬も冬用スーツを着たら寒くないので、年中関西の海でダイビングライセンス講習を実施中。


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