あの日の僕(第5話)━海と夢

あの日の僕(第5話)━海と夢

今でこそ、海の仕事をする位海が好きだけど、僕は大人になるまで海が嫌いだった。理由はいたってシンプルで、泳げないから。僕はスポーツが苦手で、泳ぐのも苦手であった。水泳なんてしなくていいならパスしたかった。

しかし、僕の住んでいた吹田市は、何故か水泳に力をいれていて、高学年になると海で遠泳が決まって実施されていた。それに危機感を持った親に、一駅離れた所にあるスイミングスクールに入れられた。とにかく嫌で嫌で仕方がなかった。スタートから終わりまで、ただただ憂鬱な時間。その頃の写真があるけど、僕の嫌そうな顔ったら凄い。本当に嫌だった事が写真からも伝わる。

プール終わりに連れて行ってもらうケンタッキープライドチキンか、ハーゲンダッツのアイスクリームが唯一のその日の楽しみ。今は滅多に食べないアイスも、当時は沢山食べた。スイカバー、カルピスキャンディーも好きでよく選んだ。

結局その遠泳の時は、レベル別にクラス分けされた一番泳力の低い所に入ったけど、スイミングスクールに通って良かったと思う。行っていなかったらきっと泳ぎきれていなかっただろう。

ここまで思い出して気づいたけど、水泳だけじゃなく、自分の学校生活を思い返すと、あまり楽しい記憶ってない気がしてきた。きっとあったはずだし、それをただ忘れている可能性が高いはずなのに。

原因はわかっている。苦手な事ばかりであったから。とにかく学校生活が違和感に満ちていた。
僕は一部の分野を除き、ほぼすべての勉強が苦痛だった。国語と社会はわりかし好きで、あとは興味が持てなかった。その2つ以外の授業中は常に上の空。自由帳をこっそり机の上に置き、空想の絵や言葉を描いたり、先生の話とは異なる事をずっと考えていた。

空想は、大人になった現在も続いている。無意識にしているから、初めてその空想している僕を見た人は驚くかもしれない。しかし空想が当たり前になっているので、本人にはどうしようもない。よく「違う世界に行っている」と言われる。ビジネス用語的にプラスな言葉に置き換えると「抽象化を常にしている」状態。本を読んで抽象化を知った時、何も特別には思わず、みんな普通にしているよね?とすら感じた。しばらくして、抽象化を常にしているのは珍しいと知って驚いた。

授業中僕は、なんでみんなそんなにずっと先生の話が聞けるのだろう?つまらないと感じているのは僕だけなのかな?それより、絵描いたり、おもしろい話を考えた方がずっと楽しいのに?なんてよくわからない疑問に満ちていた。

そんなんだから勿論成績もよろしくない。いわゆるバカ。学期末に渡される成績表を親に出す時にいつも困っていた。それでいて、コンプレックスの塊でもあった。僕は高校生になるまで太っていたし、性格も良くはなかったと今ならわかる。ただ自分を見ずに、自分はずっとみんなと何かが違うとだけ感じていた。そしてその「何か」なんてわからないのに、少し優越感として持っていた。努力不足、思い遣り不足を、よくわからない違和感で誤魔化しているなんて、それはちょっと間違っていると、後になって気づく。自分のこれまでの人生は楽しい事だけてはなく、しんどい経験もあった。だからこそ、「楽しい事をして楽しみたい」という考えになり、そう生きてきた。大人になる前に、楽しい事ってなかなか来ないし、おきないと悟った時は衝撃的だった。これは僕だけで、みんなは何もしなくても楽しい事が頻繁にあるかもしれないが、僕の場合はそうではない。色々体験してわかった。

だから辛い経験も「意味」があると思うし、そういう経験をした自分だからこそ出来る、人生をかけた使命が何かあると信じていた。

なかなかその使命が何か?はわからなかった。それが大人になってわかった。

それが、小児病棟での写真の展示活動だ。
闘病をした人間だからこそわかる事。癒しの必要性、様々な大人のエールが必用な場所を作る必用を感じているのは、きっと当事者にしかわからないだろう。だから、小児病棟の壁は20年前とほぼどこも変わっていないのだろう。勿論、予算や人員の問題が大きいのはわかっている。そこで勤務される方の激務もわかっている。精一杯僕らを見て助けていただいた事もわかっている。だからこそ、自分がそこに癒しの場所を作りたいと思った。調べた時、日本の大きな病院の小児病棟ではそうでなかったり、前例がなかった。だからこそ、挑戦を始めた。明るい未来を作ると決めた。当時の自分が見たら凄く嬉しいとわかっている。恩返しと、そこで闘病している子供たち、親御さんに、精一杯のこの気持ちを伝えたい。働く方の癒しも作りたい。

前例のないものの挑戦はすぐに良い結果にはなかなか繋がらなかったけど、最近叶った

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