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釣りと時間について

夏休みが始まってすぐ友人たちと伊勢に釣りをしに行った。実をいえば釣りに対して全く良いイメージを持っていなかったので、自分が釣りを充分に楽しめるかどうか若干疑いながら釣り堀に向かったことを覚えている。釣りに対するよくない印象は、たぶん幼いころに生まれたものだと思う。むかし父と何回か川釣りに行ったことがあるが、少年時代の私にとっては釣りの待ち時間が退屈で退屈で仕方なくて、何が面白いのかあまり理解できずに途中で飽きて川に飛びこみ泳いでいた。魚を釣るよりも、水中で魚を観察したり、自由に身体を動かしたりするほうが遥かに好きだった。我ながら、かなり自然と調和していたような気がする。

21歳になった今(え?もう21?)あらためて釣りをしてみると、感じ方がずいぶん違っていた。自分はあまり早く魚が釣れなかったのだけど、それでも幼いころは退屈で仕方なかった待ち時間が、かなり心地よかった。釣り堀の制限時間は2時間で、その間に2匹まで釣っていいルールだった。私は2時間しっかり使ったんだけど、それが京都での2時間とはかなり違っていて、街の騒音でもアパートの無音でもない耳心地のいい波の音と、あたり一面のかんかん照りで、私の中の体内時計は相当ゆっくりになっていた。それと同時になんとなく、これが本来のリズムだ、とも思った。ドラマや映画で、世捨て人みたいな人がのんびり釣りをしているのをたまに見るけど、彼らは自分の中の穏やかな時間を取り戻したくて釣りをしているのだろうな。私たちも、生活のなかでこの穏やかな時間を取り戻す術を自覚的に探してみてもいいのかもしれない。

あるとき、ボソッと「私、なにかしなきゃって、生き急いでいるんです、」とこぼした人がいた。後々になって、その人がある精神的な病を抱えていることを知ってからようやくその言葉の意味に気づいたような気がする。もしかするとその人も、本来のリズムとか穏やかな時間みたいなものを失っているか、あるいは奪われていることを無意識に感じとっていたのかもしれない。その人に対して何かできることがあったのかは分からない。けれども当時の自分は、あの人の口からこぼれた言葉をきちんと受け止める姿勢を示せていただろか?語りは語り手の口からではなくて、聞く耳から生まれるものだ。そう思いながらも、これはあの人の問題ではなく、私たちの問題なのだろうとも思った。

いまの世界では、人は基本的に焦らなければならないようになっている。分かりやすいところで言えば、私たちは絶えず受験競争に晒されてきたし、就活だってそうだ。焦らなければふつう生きてはいけないし、頑張らなければ家族にだって申し訳が立たない。しっかりしなければならない、自立しなければならない、何者かにならなければならない、育ててもらった恩を返さなければならない...
人間の無意識は思う以上に繊細で、自分ではそうと思っていなくても、いつのまにかこういう抑圧にかなり弱らされてしまうことがある。本当は、誰も何者かになんてなれるはずはない。ベルクソンやドゥルーズが言うように、何者かに「なりきる」なんてことは原理的に不可能で、人間はただ何かに「なりつづける」ことしかできない。過去も未来も忘れて、面白そうなものにはなんでも触れてみたり、焦りを払いのけて、たまには釣りに行ったりしてみると、きっとかなり呑気になれる。自分の同一性に悩み泣き言を言うよりも、そっちのほうがいくらか楽しいと思うのですが、どうでしょう。

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